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公孫武達

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公孫 武達(こうそん ぶたつ、生没年不詳)。京兆櫟陽(現陝西省西安市臨潼区櫟陽鎮)の出身。唐代の武将で、玄武門の変の参与者の一人である。[1]

若い頃から膂力に優れ、豪侠として称えられた。においては驍果(近衛兵)として仕えた。

武徳(高祖李淵の年号)初め、長春宮に赴いて太宗(李世民)に謁見し、劉武周討伐に従軍。奮戦して功績は最も顕著であった。さらに王世充竇建德の平定にも従い、累進して秦王府右三軍驃騎に至り、清水県公に封ぜられた。

武徳九年(626年6月4日、李世民は尉遅敬徳侯君集張公謹劉師立・公孫武達・独孤彦雲杜君綽鄭仁泰李孟嘗ら配下の九将を率いて玄武門(長安太極宮北面の正門)に伏兵を置き、太子李建成と斉王李元吉を殺害して帝位を掌握した。公孫武達は実封四百戸を賜った。[2]

貞観初年、検校右監門将軍を経て、まもなく肅州刺史に任ぜられた。任から一年余り後、突厥の数千騎と輜重一万余が肅州に侵入し、南下して吐谷渾に入ろうとした。武達は兵二千を率いてその精鋭と遭遇し、力戦して敵軍を少し退かせると、急襲をかけ、これを大敗させて張掖河に追い落とした。さらに軍士に命じて上流で筏で兵を渡河させ、残存勢力を攻撃。賊が渡河中の時、両岸から挟撃して、ほぼ全てを斬殺または溺死させた。この功績により皇帝からの勅書で慰労・賞賛され、左監門将軍に任ぜられた。

その後、詔を受けて塩州で反乱した突厥を討伐した。武達は軍を率いて霊州へ急行し、これを追撃した。賊が渡河中だったところに武達が到着すると、賊は黄河の南岸に拠った。武達は兵を進めて攻撃し、その首領である可邏抜扈を斬り、残党もほぼ全滅させた。これにより東萊郡公に進封された。

永徽年間、累進して右武衛大将軍に至った。死去の際、高宗は朝儀を中止して哀悼の意を示し、荊州都督を追贈し、東園秘器(皇帝下賜の棺・副葬品)を給わり、昭陵に陪葬された。諡は「壮」である。

人物・逸話

唐の左武衛大将軍・公孫武達は膂力に優れていた。ある時、賊に遭遇し、持ち物をすべて奪われた上、靴を強要された。武達は足を差し出して与えるふりをした。賊が身をかがめて靴を脱がせようとした瞬間、武達はこれを殴打し、その場で死に至らしめた。さらにその賊の武器を手に取り、残る賊寇を防ぎ戦って、難を免れた。[3]

演義小説中の公孫武達

伝記資料

脚注

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