杜君綽
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杜君綽の祖父の杜謐が北斉時代に秀才として挙げられ、後に中山郡功曹、さらには県令に任じられた。父は唐において杜君綽の戦功により、死後汝州刺史を追贈されている。
杜君綽は義寧2年(618年)に義軍に参加した。その後唐に帰順し、秦王李世民に従って各地の軍閥を征討し、劉武周・宋金剛討伐など数々の戦役に従軍した。
武徳9年6月4日(626年7月2日)、李世民は尉遅敬徳・侯君集・張公謹・劉師立・公孫武達・独孤彦雲・杜君綽・鄭仁泰・李孟嘗ら9将を率い、玄武門(長安太極宮北面の正門)内に伏兵を配置し、皇太子李建成と斉王李元吉を殺害、帝位を継承した。杜君綽はその功績により懐寧県開国侯に封じられ、綿州に実封食邑400戸を与えられた[1]。
李世民の即位後、杜君綽は懐寧県開国公に進み、食邑1000戸を賜った。忠武将軍に任じられ、左監門衛中郎将を務め、さらに護軍を加えられた。玄武北門・翠微宮・玉華宮などの宮殿守備を担当した。貞観23年(649年)、右領軍衛将軍に任じられ、上護軍を加えられた。
永徽元年(650年)、検校左武衛将軍を兼務し、さらに検校右武候衛大将軍となり、右廂諸門兵馬隊使を兼任した。まもなく東都洛陽留守に転じ、左領軍衛将軍となり、上柱国の勲位を加えられた。高宗が洛陽に行幸した際には、黄金100両と絹150匹を下賜された。また、高宗に供奉して許州に行幸し、勅命により検校左衛将軍に任じられた。都に戻った後は検校右衛将軍(本職は左領軍衛将軍であり、他の将軍職はいずれも兼務・臨時代理)を経て、まもなく太子左衛率を兼務した。
龍朔元年(661年)、任雅相が浿江道行軍総管、契苾何力が遼東道行軍総管、蘇定方が平壌道行軍総管、蕭嗣業が扶余道行軍総管、右驍衛将軍の程名振が鏤方道行軍総管、左驍衛将軍の龐孝泰が沃沮道行軍総管にそれぞれ任ぜられ、諸蕃の三十五軍を率いて再び高句麗征討に赴いた際、杜君綽は遼東道経略大使として高句麗諸地域の経略を担当した。唐軍は泉男生率いる高句麗軍を撃破し、3万余級を斬首して凱旋。杜君綽はこの功績により左領軍衛大将軍に任じられた。
龍朔2年(662年)、左領軍衛大将軍は左戎衛大将軍と改称されたが、太子左衛率は太子左典戎衛率と改称された。同年10月25日(662年12月11日)、朝廷に出仕中に宮中の廊下にて死去した。享年は62。高宗は詔を下し、使持節・都督荊硤岳朗四州諸軍事・荊州刺史を追贈し、諡号を襄とし、昭陵に陪葬された。
子の王府参軍・上柱国の杜延基が後を嗣いだ。
脚注
- ↑ 『旧唐書』巻65:六月四日、無忌与尉遅敬徳・侯君集・張公謹・劉師立・公孫武達・独孤彦雲・杜君綽・鄭仁泰・李孟嘗等九人、入玄武門討建成・元吉、平之。
伝記資料
- 『大唐故左戎衛大将軍兼太子左典戎衛率贈荊州都督上柱国懐寧県開国襄公杜公碑』