李孟嘗
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李孟嘗の曾祖父の李静は北斉の潁川郡太守を務め、祖父の李専は趙州主簿であった。父の李抜の代に至り、家運は衰えて貧民に転落した。
隋末の中原大乱に際し、李孟嘗は山に入って賊徒となった。大業14年(618年)、王君廓とともに李淵に帰順したが、この時わずか25歳であった。武徳元年(同年)、唐の高祖李淵が即位すると、王君廓は彭国公に封じられ、李孟嘗は開府儀同三司に任じられ、秦王李世民に招かれてその幕下の将となった。
同年8月、李世民に従って薛挙・薛仁杲を征討し、武徳3年(620年)には劉武周の討伐に参加した。これら一連の戦功により上柱国の勲位を加えられ、累次の功績で財物1500段を賜った。
武徳4年(621年)5月、再び李世民に従い虎牢の戦いにおいて王世充・竇建徳を撃破した。武徳6年(623年)5月には、河南道行軍大総管の李世勣に従って徐円朗を討ち破った。
武徳9年6月4日(626年7月2日)、李世民が尉遅敬徳・侯君集・張公謹・劉師立・公孫武達・独孤彦雲・杜君綽・鄭仁泰・李孟嘗ら九将を率いて玄武門(長安太極宮北面の正門)内に伏兵を配置し、皇太子李建成と斉王李元吉を殺害した。李孟嘗はこの功により右監門衛副率に任じられ、財物5000段・黄金500両を賜った。同年7月、右監門衛中郎将に転じ、武水県開国公に封じられ、別途に実封食邑400戸を与えられた。8月、太宗(李世民)が皇帝に即位した。
貞観3年(629年)11月、并州都督の李世勣が通漠道行軍総管、華州刺史の柴紹が金河道行軍総管、任城郡王李道宗が大同道行軍総管、幽州都督の衛孝節が恒安道行軍総管、営州都督の薛万淑が暢武道行軍総管にそれぞれ任じられ、突厥討伐が行われた。
貞観4年(630年)2月、李孟嘗は李世勣に従い磧北の陰山にて突厥を大破し、功績により奴婢百口を賜った。貞観5年(631年)、食邑2000戸を加えられ、後に漢東郡開国公に改封し、随州に実封食邑400戸を与えられた。
貞観14年(640年)、右驍衛将軍に任じられた。貞観18年(644年)、右屯衛将軍に転じた。
貞観20年(646年)、黔州刺史として出向した。管内の昆州・牂州の蛮夷の騒乱を平定し、敵を破り善政を敷いた功績により、奴婢二百口を賜った。
永徽6年(655年)、朝廷に召還されて右監門衛大将軍に任じられた。龍朔2年(662年)5月に右威衛大将軍に転じ、引き続き勅命により検校太子右典戎衛率を兼務した。高宗が洛陽に行幸した際には、李孟嘗は太常寺卿の李寛らと共に長安留守に任じられた。
乾封元年5月30日(666年7月7日)、長安静安坊の邸宅にて急病により死去した。享年は74。高宗は詔を下し、使持節・都督荊硤岳朗四州諸軍事・荊州刺史を追贈し、諡号を襄とし、昭陵に陪葬された。