内ハルハ

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内ハルハモンゴル語: ᠥᠪᠥᠷ
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ラテン文字転写: Öbör Qalqaキリル文字転写: Өвөр Халх)とは、主に16世紀後半から17世紀初頭にかけて存在したモンゴル系の一部族。ジャルートバアリンバヨドホンギラトオジェートの五つのオトクによって構成されたことから、「五部ハルハ(タヴ・オトク・ハルハ)」とも呼ばれた。

もとはフルンボイル草原ハルハ川一帯で遊牧するハルハ・トゥメンという勢力の左翼部分であったが、16世紀半ばに外ハルハから別れて南下し、現在の内モンゴル自治区赤峰市通遼市一帯に定住した。地理的にモンゴル系諸部の中で最も女直人の居住地に近く、ヌルハチ後金国(後の清朝)を建国すると早くから交流を始めた。後金への対応は内ハルハ内部でも対応が別れ、敵対した部族は滅ぼされ、投降した部族はに編成されて名を残した。現在の赤峰市バアリン右旗左旗および通遼市ジャルート旗が内ハルハに由来する行政区画名である。

内ハルハの成立

ハルハの起源は、大元ウルス時代の左翼五投下(ジャライル・コンギラト・イキレス・ウルウト・マングトの五部からなる)にあると考えられているが、その活動が記録され始めるのはモンゴル中興の祖として名高いダヤン・ハーンの治世からのことである。ダヤン・ハーンは再統一したモンゴル高原東部の諸部族を六大部族(トゥメン)に再編し、左翼のチャハル・ハルハ・ウリヤンハン、右翼のオルドス・トゥメト・ヨンシエブは後世「ダヤン・ハーンの六トゥメン」と呼ばれた。

ダヤン・ハーンは六トゥメンの支配を強めるために自らの諸子を次々と分封したが、ハルハ・トゥメンは早くから左右翼に分裂していたため、左翼にはアルチュ・ボラトが、右翼にはゲレセンジェがそれぞれ分封された。最初期のハルハは、元代以来の左翼五投下の伝統を継いで、右翼の筆頭がジャライル、左翼の筆頭がホンギラトであったと考えられている。いずれにせよ、アルチュ・ボラトへの分封以後、左翼ハルハ=内ハルハが独立した遊牧集団として史料上で言及されるようになる。

「ダヤン・ハーンの六トゥメン」にかかる最初期の記録は16世紀に編纂された漢文史料の『九辺考』で、本書には「罕哈部(ハルハ部)」についての記述があり、この頃「罕哈部」は「三営」からなっており、「猛可不郎(Möngke bolad)」なる人物が領していたという[1]。この「三営」は早い段階から名称が言及されるジャルート・バアリン・ホンギラトの三部を指すもので、「猛可不郎」はアルチュ・ボラトの別名ではないかと考えられている。

内ハルハ五部の成立

アルチュ・ボラトから内ハルハを継承したのがその息子のフラハチ・タイジであったが、この頃モンゴル高原で最大の実力者であったのは正統な大ハーンでないトゥメト部のアルタン・ハーンであった。そこで正統なハーンでチャハル部を率いるダライスン・ゴデン・ハーンはアルタンの圧迫を避けて大興安嶺東部への移住を行い、フラハチ率いる内ハルハやノンホルチンもこれに従って南下を始めた[2]。現在の内モンゴル自治区赤峰市・通遼市一帯には15世紀より泰寧衛福余衛が遊牧していたが、チャハルの東遷に伴って滅ぼされ、その故地に入ったのがチャハルと内ハルハであった。このため、明朝の漢文史料ではフラハチの一族を泰寧衛の人物と誤って記すことも多い[3]

『明世宗実録』には 1555年(嘉靖34年)に内ハルハ首領のフラハチ(虎剌哈赤)とホルチン部首領のフイモンヘ(魁猛可)・ダライスン(打来孫)らが明に出兵したとの記録があり[4]、また『武備志』巻204でも遼東境外の虜酋としてフラハチ(虎剌哈赤)とホルチン部首領のフイモンヘの名が列挙されている[5][6]。これによって、同時期に遼東方面に進出したフラハチとフイモンヘが協力関係にあって、勢力を拡大しつつあったことが窺える[7]。また、嘉靖末年に編纂された趙時春の『北虜紀略』では「東方の泰寧・福余の地、遼左にあたる地では、虜(モンゴル)の特に新しく起こった酋長をフラハチと言った(東則泰寧・福余地、直遼左矣。虜之特起新酋、曰虎剌哈赤者、衆不満千)」と記され、フラハチが遼河流域の新興勢力の長として見なされていたことが窺える[8]

フラハチがいつ頃死去したかは不明であるが、その部衆はウバシ・ウイジェンシュブハイ・ダルハンウバン・ブイム・ドクシンソニン・ダイチンショーハ・ジョリクトら五人の息子によって受け継がれた。ウバシ・ウイジェンはジャルート・オトクを、シュブハイ・ダルハンはバアリン・オトクを、ウバン・ブイム・ドクシンはホンギラト・オトクを、ソニン・ダイチンはバヨド・オトクを、ショーハ・ジョリクトはオジェート・オトクをそれぞれ継承し、以後内ハルハは「五部ハルハ(タヴ・オトク・ハルハ)」の名でも知られるようになる。

内ハルハの興隆

フラハチの諸子の中で、最初に頭角を現したのはバアリン・オトクを領するシュブハイ・ダルハンであった。明代後期に編纂された『万暦武功録』にはシュブハイの列伝があり、「遼左で患をなすこと二十年」と記され、嘉靖末年から万暦初年(1560年代〜1570年代)に内ハルハを代表する領侯として知られていた[9]。また、モンゴル年代記の『蒙古源流』ではトゥメン・ジャサクト・ハーンがシュブハイら五人の諸王を執政に任命したとの記録があり、モンゴル人の側からもハルハを代表する領侯であると見なされていた[10]。一方、ジャルートを率いる長兄のウバシ・ウイジェンの事蹟はほとんど記録がないが、その嫡孫はジョント・ハン(J̌ongtu qan)、嫡曽孫はアバダイ・ネイチ・ハン(Abadai neyiči qan)と代々ハン号を称し、本来の内ハルハの嫡流として勢力を保持していた。

しかし1582年(万暦10年)、シュブハイは広寧の鎮夷堡を攻めた際に矢を受けて殺され、更に1594年(万暦22年)10月には父の仇を討たんと出兵したシュブハイの子らが、広寧の鎮武堡で敗死するという事件が起こった[11]。これによってバアリン・オトクは一時衰退し、代わって浮上したのがジャイサイ率いるホンギラト・オトクと、ショーハ率いるオジェート・オトクであった。特にショーハは、この頃フラハチの孫世代が主流となる中、一世代上の内ハルハの長老格として台頭し、以後内ハルハを代表する領袖として知られるようになった[12]。同時代の漢文史料ではこの頃の内ハルハ五部を指して「炒花(ショーハ)五大営」とも表現している[13]

ヌルハチとの折衝

16世紀初頭には建州女直を統一したヌルハチが東方で勢力を拡大しており、1616年(万暦44年/天命元年)には後金(アイシン)国が建国されていた。内ハルハの中で早くからヌルハチに友好的だったのはバヨド・オトクで、ソニン・ダイチンの孫のエンゲデル(Enggeder)は後金建国以前の1605年(万暦33年)にヌルハチに進貢し、1606年(万暦34年)12月にはエンゲデルが他のモンゴル諸王とともにヌルハチにフンドゥレン・ハーンの称号を奉呈している[14][15]。また、これに続いてジャルートが1613年(万暦41年)に娘を後金国に嫁がせることを申し出、これ以後内ハルハ諸王とヌルハチ家の間で多くの姻戚関係が結ばれていく。

1618年(万暦46年/天命3年)、ヌルハチが明領の遼東地方に大挙して侵攻した際には(サルフの戦い)、ジャイサイとショーハが遼河の西岸、広寧の鎮静堡に駐屯して、明朝を牽制した[16]。このようにサルフの戦いで内ハルハ諸部は間接的にヌルハチを助けたが、これによって内ハルハとヌルハチが友好関係に転じたというわけではなく、1619年(万暦47年/天命4年)7月にはジャイサイがホルチン部と共同で後金国領の鉄嶺で略奪を行い、逆に捕らえられてしまうという事件が起こった[17][18]

これを受けてバヨドのエンゲデルら内ハルハの諸王がヌルハチにジャイサイらの釈放を要請する使者を送った[19]。返還交渉の中でヌルハチは明朝こそが女直人とモンゴル人共通の敵であるとも述べ、これを受けて10月22日にショーハは明朝を共通の敵とすることで講和を行うことを申し出た[20]。これを受けて、内ハルハ諸王とヌルハチの使者が12月23日にガンガン・セテルヘイ(Gangan seterhei)の地に集って同盟が結ばれた[21]

一方で1621年(天啓元年/天命6年)5月22日にショーハは明朝の招撫を受けていた。これによってショーハはジャイサイ釈放の交渉を蔑ろにする形で、明朝の王化貞に対してヌルハチが広寧攻撃のため張儀に集結していることを通告した[22]。しかし同年8月にジャイサイが釈放されると、10月にはショーハも遼東辺外から北上し、事実上ヌルハチの広寧攻撃に不干渉の立場を取る[22]。『山中見聞録』巻3によると、同年10月に王化貞は銀3万両をショーハに与えようとしたとあり、明側はショーハらを味方につなぎとめようと必死であった[22]

内ハルハ五部の解体

1626年(天啓6年/天命11年)1月に満洲軍が寧遠城攻めで敗退したこと受け、ショーハは後金国軍の斥候を排除することで、明朝から重賜を受けた[23]。これを受け、遂にヌルハチはショーハとの対決を決意し、同年4月に自ら大軍を率いて内ハルハに遠征し、ショーハの軍団を打ち破るに至った[23]。壊滅的打撃を受けたショーハは単身北方に逃れ、これを以て事実上オジェート・オトクは滅亡した[24][25]。この事件は『三朝遼事実録』巻16にも見える[26]

ヌルハチは1626年(天啓6年/天命11年)8月に死去したが、跡を継いだホンタイジは早くも同年10月10日にジャルートへ遠征軍を派遣した[23]。同月25日までに勝利の報告がホンタイジの下にもたらされ、ジャルートのバク・ベイレ以下14名が捕虜とされたという[23]。さらに、このような内ハルハ諸部の劣勢を見たチャハルのリンダン・ハーンも内ハルハに出兵し、その属民・家畜を略奪していった[23]。一連の戦役によって五部ハルハという集団そのものが解体し、ジャルートとバアリンのみが(ホショー)として部族名を残すに至った。

構成

ジャルート

「ジャルート」の名称はモンゴル帝国時代に見られないもので、北元時代以後に形成された新興の集団である。バガスン・ダルハンがダヤン・ハーンに仕えて多くの武勲を立てて以後、内ハルハ筆頭の地位を占めるようになり、フラハチの長男のウバシ・ウイジェンに継承された。ウバシ・ウイジェンの直系の子孫は代々ハンを称しており、内ハルハ全体の宗家と見なされていたようである。

バヨドとともに早い段階から清朝の宗室と姻戚関係を結び、清朝によって滅ぼされることなくジャルート旗として存続した。ウバン・ウイジェンにはバヤンダル・イルデン(Bayandar ildeng)、ホイキ・ドクシン(Qoyiki doγsin)、トブフ・メルゲン(Tobuqu mergen)、トタイ・ドラル(Tutai dural)、ブニ・セチェン(Büni sečen)、ローサ・ホシューチ(Loosa qosiγuči)の六子があり、長男のバヤンダルの系統はジャルート左旗に編成され、それ以外の諸子の子孫はジャルート右旗に編成された[27]

バアリン

バアリンはモンゴル帝国時代から存在する集団で、13世紀にはコルチ・ウスン・エブゲンナヤアバヤンといった有力な将軍を多く輩出した。北元時代の動向は不明であるが、恐らくは「左手の五投下」と行動をともにした集団がハルハに合流し、フラハチの次男のシュブハイ・ダルハンに継承された。

シュブハイはフラハチの諸子の中で最初に頭角を現し、16世紀後半には最も勢力が大きかったが、シュブハイとその息子が明朝との戦いで戦死したことによって一時衰退した。しかしそのために清朝と本格的に対立することなく、清朝に降ってバアリン左旗・右旗に編成された。

バヨド

バヨドはモンゴル帝国時代に存在したバヤウドの後身とみられ、モンゴル帝国時代のバヤウドはホンギラトに次いで皇后(カトン)を輩出する家系として知られていた。しかし15世紀から16世紀にかけての動向は全く記録がなく、フラハチの三男のウバン・ブイム・ドクシンが継承してから記録が残り始める。

バヨドは内ハルハ諸部の中でも早くから清朝に融和的であった集団で、ソニン・ダイチンの長男ボルハイの息子エンゲデルがヌルハチにフンドゥレン・ハーンの称号を奉呈した。エンゲデルは1623年(天啓3年/天命8年)に部族民を率いて満洲に移住し、清朝に内属する形となった。このためバヨドは外藩として旗を形成することはなくなったが、ソニン・ダイチンの子孫は満洲八旗の貝勒として清代を通じて存続し、しばしば大臣を輩出した。

ホンギラト

ホンギラト(コンギラト)はモンゴル帝国時代には代々皇后(カトン)を輩出する部族として知られ、特に大元ウルスでは多くの皇后を輩出し強大な勢力を築いていた。北元時代中でもボルフ・ジノンを護送した大臣の一人に「ホンギラトのアサリ太保(Asali tayibu、エセレイとも)」が挙げられるなど、他の諸部族が没落する中で勢力を維持していたようである。上述の通り本来は左翼ハルハ(=内ハルハ)の中核部族であったとみられるが、なんらかの事情でその地位をジャルートに譲り、フラハチの四男のソニン・ダイチンに継承された。

1610年代1620年代にはソニン・ダイチンの孫のジャイサイの勢力が強大となったが、ヌルハチ・ホンタイジの討伐を受け、さらにチャハルの掠奪を受けて没落した。一方、ジャイサイの子のダイガル・タブナン(Daigal tabunang)とセレン・タイジ(Sereng taiji)兄弟(モンゴル年代記の『アルタン・クルドゥン』ではカン・アカイ/Qan aqaiとプヤン・アカイ/Buyan aqaiと表記する)が、同年9月29日にホンタイジに降ったとの記録がある[28]。このうち、ダイガル・タブナンは別の史料でチャハルから離叛して八旗に分配された大臣の一人として言及され、実在していたことが確認出来る[28]。ただしホンギラトの名を冠したニルは史料上に見当たらず、単独のニルを編成するだけの規模がないまま、八旗に編入されてしまったようである[28]

オジェート

オジェートの起源については諸説あるが、ツングース系集団ウェジ(ウジェ)がモンゴル化した集団ではないかと考えられている。ジャルートとともにモンゴルの中では新興の集団であり、フラハチの末子のショーハ・ジョリクトに継承された。1610年代1620年代にはショーハの兄が皆引退したことで、ショーハが内ハルハを代表する領侯と見なされ、内ハルハ全体の動向に大きな影響を及ぼした。

しかしショーハは最終的に清朝によって打倒され、オジェートは清代に存続することができなかった。

系図

脚注

参考文献

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