ショーハ
From Wikipedia, the free encyclopedia
出自
ハルハ・トゥメンは元代の「左手の五投下」の後身とみられ、16世紀初頭に「ダヤン・ハーンの六トゥメン」の一つに数えられていた。ハルハ・トゥメンは早くから左右翼に分裂しており、ダヤン・ハーンは右翼にアルチュ・ボラトを、左翼にはゲレセンジェをそれぞれ分封して牧民を治めさせた。アルチュ・ボラトの息子のフラハチ(Quraqači)には五人の息子がおり、それぞれ左翼ハルハの牧民を分割相続させたため、これ以後左翼ハルハは「五部ハルハ」とも呼ばれるようになる。この内、フラハチの末子でオジェート・オトクを継承した人物こそがショーハであった。兄には、ジャルートを継承したウバシ・ウイジェン、バアリンを継承したシュブハイ・ダルハン、ホンギラトを継承したウバン・ブイム・ドクシン、バヨドを継承したソニン・ダイチンらがいる。
フラハチの末子であったショーハは史料上に登場するのが兄たちに比べ遅く、16世紀末成立の『北虜風俗』「北虜世系」などでは名が見えないが、その数年後に成立した『登壇必究』では「虎剌哈赤(フラハチ)」の「五子炒哈」として名が挙がる[4]。『遼夷略』ではショーハの牧地が「鎮武・西平・東昌・東勝・長静・長安・長勇・平虜諸堡」にまたがって、鎮遠関から明朝に入貢していたと伝えている[5][6]。このころの内ハルハ(五部ハルハ)は大きく南北に分かれており、16世紀後半には北を長兄のウバシ・ウイジェンが、南を次兄のシュブハイ・ダルハンが支配していた[7]。これに対し、17世紀以後は後から勢力を拡大したショーハがシラムレン以南の南部地域を、ジャイサイが北部地域を支配するようになった[8]。
16世紀末まで
ショーハの前半生については『万暦武功録』巻12に列伝があり、嘉靖年間(~1560年代)までは五部ハルハの領主の中でショーハが最も幼弱であったが、隆慶年間の始め(1560年代末)より次兄のシュブハイに従うようになってやや強大となってきたという[9]。また『遼夷略』によると、ショーハは1582年(万暦10年)にシュブハイが死去して以後、「妹の夫の花大と組んでシュブハイの仇に報復することを図り、年々我が方(明朝)の辺境を苦しめてきた」とされる[6]。
ショーハにとって大きな転機となったのは、1594年(万暦22年)10月に長兄のウバシ・ウイジェンの子でジャルートを継承したバヤンダルらが明軍に敗北し戦死したことで、これによってショーハの地位が相対的に浮上した[10]。既にフラハチの孫世代(ショーハの甥)が主流となる中、一世代上のショーハは内ハルハの長老格として台頭し、以後内ハルハを代表する領袖として知られるようになった[11]。明代の漢文史料では「炒花五大営」との表現も見られるが、これはまさしくショーハが「内ハルハ五部(=五大営)」を総括していたことの現れである[12]。また、清代に編纂された『欽定外藩蒙古回部王公表伝』でジャルートやバアリンが「初めは皆ハルハに従っていた(初皆服属于喀爾喀)」と記されるのは、「(ショーハの総括する)ハルハに従っていた」ということであろう[13]。また、『遼夷略』によると1615年(万暦43年)には明朝によって遼陽の長安堡で市が開かれ、広寧・鎮遠の東、遼陽の西でモンゴル人が往来・遊牧することが許されたという[6]。
後金国のヌルハチとの攻防
16世紀初頭には建州女直を統一したヌルハチが東方で勢力を拡大しており、1616年(万暦44年/天命元年)には後金(アイシン)国が建国されていた。1618年(万暦46年/天命3年)、ヌルハチが明領の遼東地方に大挙して侵攻した際には(サルフの戦い)、内ハルハのジャイサイ(Jaisai)とショーハが遼河の西岸、広寧の鎮静堡に駐屯して、明朝を牽制した[14]。このようにサルフの戦いで内ハルハ諸部は間接的にヌルハチを助けたが、これによって内ハルハとヌルハチが友好関係に転じたというわけではなく、1619年(万暦47年/天命4年)7月にはジャイサイがホルチン部と共同で後金国領の鉄嶺で略奪を行い、逆にとらえられてしまうという事件が起こった[15][16]。
これを受けてバヤウト・オトクのエンゲデル(Enggeder)らがジャイサイ釈放のためヌルハチと交渉と行ったが、一方で1621年(天啓元年/天命6年)5月22日にショーハは明朝の招撫を受けていた。これによってショーハはジャイサイ釈放の交渉を蔑ろにする形で、明朝の王化貞に対してヌルハチが広寧攻撃のため張儀に集結していることを通告した[17]。しかし同年8月にジャイサイが釈放されると、10月にはショーハも遼東辺外から北上し、事実上ヌルハチの広寧攻撃に不干渉の立場を取る[17]。『山中見聞録』巻3によると、同年10月に王化貞は銀3万両をショーハに与えようとしたとあり、明側はショーハらを味方につなぎとめようと必死であった[17]。また『三朝遼事実録』巻7、1622年(天啓2年/天命7年)正月条によると、ショーハはリンダン・ハーンと同額の銀1万両を明に要求したともいう[18][19]。しかし、結局ショーハは明朝のため動くことはなく、1622年1月21日に広寧はヌルハチに占領されてしまった[19]。
一方で、1621年に内ハルハのための互市場である遼陽城郊外の長安堡、1622年に広寧がそれぞれ陥落したことは、明朝から内ハルハへの物資供給の大幅な減少をもたらした[19]。1623年(天啓3年/天命8年)4月22日、満洲軍がジャルートのアンガ父子を攻め殺すという事件が起きたが、背景にはこのころホルチン部が内ハルハに狙われているとの風聞があり、この時の満洲軍によるジャルート攻撃は、ホルチン部救援の側面があったとの説がある[19]。
オジェート・オトクの壊滅
1625年(天啓5年/天命10年)、ショーハはホルチン部のオーバに対して「チャハルの軍団がホルチン部を攻めるため9月15日に出発する」ことを通告した[20]。これを受けたオーバがヌルハチに連絡を取った際、「ショーハ配下のオジェートとバアリンは味方として信頼できるが、コンギラトのジャイサイらはチャハルとともに攻めてくるかもしれない」と述べたという[20]。
この間、ショーハは隣接するヌルハチの後金国と明朝双方に対し、その時々でどちらか一方に味方して見返りを要求するということを繰り返していた。しかし、1626年(天啓6年/天命11年)1月に満洲軍が寧遠城攻めで敗退したこと受け、ショーハは後金国軍の斥候を排除することで、明朝から重賜を受けた[20]。これを受け、遂にヌルハチはショーハとの対決を決意し、同年4月に自ら大軍を率いて内ハルハに遠征し、ショーハの軍団を打ち破るに至った[20]。壊滅的打撃を受けたショーハは単身北方に逃れ、これを以て事実上オジェート・オトクは滅亡した[21][22]。この事件は『三朝遼事実録』巻16にも見える[23]。
ヌルハチは1626年(天啓6年/天命11年)8月に死去したが、跡を継いだホンタイジは早くも同年10月10日にジャルートへ遠征軍を派遣した[20]。同月25日までに勝利の報告がホンタイジの下にもたらされ、ジャルートのバク・ベイレ以下14名が捕虜とされたという[20]。さらに、このような内ハルハ諸部の劣勢を見たチャハルのリンダン・ハーンも内ハルハに出兵し、その属民・家畜を略奪していった[20]。一連の戦役によって五部ハルハという集団そのものが解体し、ジャルートとバアリンのみが旗(ホショー)として部族名を残すに至った。