フラハチ
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16世紀初頭に東部モンゴリアを再統一したダヤン・ハーンは自らの諸子を各部族に分封し、内ハルハにはアルチュ・ボラトが分封された。アルチュ・ボラトの息子で内ハルハを継承したのがフラハチで、同世代のモンゴルの領侯にはチャハル部を領したボディ・アラク・ハーン、オルドス部を領したグン・ビリク・メルゲン・ジノン、トゥメト部を領したアルタン・ハーンらがいた。
フラハチが内ハルハの領主となった1550年代ころ、モンゴル高原で最大の実力者であったのはトゥメト部のアルタン・ハーンで、正統なハーンであるダライスン・ゴデン・ハーンが率いるチャハル部はアルタンの圧迫を避けて大興安嶺への移住を行った[2]。これに伴ってモンゴル高原東部の諸集団の再編が行われ、先住の泰寧衛・福余衛は領地を奪われて零落し、その牧地に内ハルハとホルチンが新たに進出した。特に、内ハルハは泰寧衛の旧領に進出したため、明朝の漢文史料ではフラハチの一族を泰寧衛の人物と誤って記すことも多い[3]。
『明世宗実録』には 1555年(嘉靖34年)に内ハルハ首領のフラハチ(虎剌哈赤)とホルチン部首領のフイモンヘ(魁猛可)・ダライスン(打来孫)らが明に出兵したとの記録があり[4]、また『武備志』巻204でも遼東境外の虜酋としてフラハチ(虎剌哈赤)とホルチン部首領のフイモンヘの名が列挙されている[5][6]。これによって、同時期に遼東方面に進出したフラハチとフイモンヘが協力関係にあって、勢力を拡大しつつあったことが窺える[7]。
また、1562年(嘉靖41年)2月には兵部尚書の楊博の上奏の中で、当時の有力なモンゴルの領侯として「宣大・薊鎮方面のアルタン(俺答)・センゲ(辛愛)父子、遼東方面のフラハチ(虎剌哈赤)、陝西方面のジノン(吉能)」らの名前が挙げられている[8][9]。また、同じく嘉靖末年に編纂された趙時春の『北虜紀略』では「東方の泰寧・福余の地、遼左にあたる地では、虜(モンゴル)の特に新しく起こった酋長をフラハチと言った(東則泰寧・福余地、直遼左矣。虜之特起新酋、曰虎剌哈赤者、衆不満千)」と記され、フラハチが遼河流域の新興勢力の長として見なされていたことが窺える[10]。
フラハチがいつ頃死去したかは不明であるが、その部衆はウバシ・ウイジェン、シュブハイ・ダルハン、ウバン・ブイム・ドクシン、ソニン・ダイチン、ショーハ・ジョリクトら5人の息子によって受け継がれた。これによって内ハルハは5つのオトクによって構成されるようになり、以後「五部ハルハ(タヴ・オトク・ハルハ)」の名で知られるようになる。『遼夷略』はフラハチの死後、その息子達が支配する領域を「広寧・鎮遠・鎮寧・鎮武・西平・海州・東昌・東勝一帯の400里余り」と表現している[11][12]。