劉賛 (後唐)
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劉玭の子として生まれた。文章を得意とし、天祐2年(905年)に30歳あまりで進士に及第した。魏博節度使の羅紹威の下で巡官に任じられた。退任して開封府に入り、後梁の開封尹の劉鄩を頼った。長らくを経て、租庸使の趙巌の推薦で魏博節度巡官となり、戸部員外郎に累進した[1][2]。
同光元年(923年)、後唐の荘宗が開封府に入ると、劉賛は租庸副使の孔謙と同郷だったことから、その推薦を受けて塩鉄判官となった[1]。天成2年(927年)、比部郎中・知制誥から中書舎人となった[3]。長興元年(930年)、御史中丞に転じた[4]。長興2年(931年)、刑部侍郎に任じられた[5]。翰林学士の竇夢徴と同期の進士であったことから、隣家に住んで仲が良く、竇夢徴が死去すると、劉賛は楊凝式とともに3カ月の喪に服した。竇夢徴の家には嫡長子がなかったため、劉賛が葬儀の事務をとりしきり、竇夢徴の妻子の面倒をみてやった[1]。
長興4年(933年)、劉賛は秘書監に転じ、秦王傅を兼ねた[6]。秦王李従栄をたびたび諫めたが、聞き入れられなかった。李従栄が敗死すると、劉賛は嵐州に配流された。清泰2年(935年)春、郷里に帰るよう命じられた。妻の紇干氏を道中に失い、劉賛は慟哭してやまず、病にかかって潞州の石会関で死去した。享年は六十数歳[7][8]。