勢多家

From Wikipedia, the free encyclopedia

勢多家(せたけ)は鎌倉時代から江戸時代にかけて朝廷に仕えた中原氏流の地下家官人。初叙は正六位上で極位は正四位上検非違使下北面として代々活動した。家号は近江国栗太郡勢多荘に由来する。

鎌倉中期以降、中原氏は数流に分かれ、明法博士・使庁大夫判官等の職をめぐって対立した。特に博士の任は、中古以降定員2名のうち1名は中原明兼以降の坂上流中原氏の人が選ばれる例であったため、残る1つのポストをめぐり競走は激越をきわめた。中原章澄の著わした「明法条々勘録」には、庶流にある中原章直・章職中原章兼等に対して「違受業之師伝、背律令正文(訳:学問を授けた師の教えに背き、律令の正文にも反している。)」なる非難と、「前途を失うべし」という呪言が見えており、対立が個人攻撃にまでいたっていたことを示している。このため同氏各流は鎌倉時代において同族たる意識を失いつつあり、住居地やその所有する荘園名を苗字とした理由もここにあると考えられる[1][2]

建武元年(1334年)8月の「雑訴決断所結番交名」5番に、「勢多大夫判官」の肩注を持つ中原章兼の記載が史料上の初出と思われる(「明法条々勘録」および「令集解」奥書にみえる章兼とは別人)。章兼の父章房は、「太平記」によれば4代の朝に仕えて「中原一流ノ棟梁、法曹一道ノ碩儒」との世誉をえたという。「園太暦」によれば章兼は貞和年中(貞和元年(1345年) – 貞和6年(1350年))に明法博士に任ぜられたが後に解官された。系図上の嫡流にあたる中原章保は、「検非違使補任」によれば養父より「不器不階」の旨が申請されて解官されている。なお、安貞頃(嘉禄3年(1227年) – 安貞3年(1229年))に「勢多判官為兼」、延慶頃(延慶元年(1308年) – 延慶4年(1311年))に「勢多判官中原章則」なる人物が知られているが、この一族では祖・章貞以来「章」を「あき」ではなく「のり」と読むのが通則であり、「章則」の訓はこれと合わないため、同氏一流の人物とは考えにくいとされる。『続左丞抄』には年月不詳(貞治末年頃と推測される。)に「勢多判官章頭」なる人物がみえるが、章兼・章頼および章清の父中原章耀との関係は不明である。「東寺百合文書」(「大日本古文書」家わけ10、東寺文書之5)によれば、永徳3年(1383年)頃に「正親町博士大夫判官」と称された章忠が、東寺院より給される寄検非違使俸禄を祖父章頼の後をうけて管理していたとある[1][2]

薩戒記』・『歴名土代』・『地下家伝』等によれば、勢多家が頭角をあらわすのは室町中期以降の永禄年間(永禄元年(1558年) – 永禄13年(1570年))頃であり、以後博士・大判事等の要職を伝えた。 江戸時代に入ると養子が続き、慶長年間(慶長元年(1596年) – 慶長20年(1615年))に「久我殿家来称勢多兵部治房」なる人物がみえる。以後数代にわたって養子を重ねた後、曾孫勢多治勝延宝3年(1675年)にはじめて明法博士に任ぜられ、その子勢多章堅へと職を伝えた。「瀬多文書」には勢多章成の子章堅の任官旨が挙げられている。ある人物は元禄元年(1688年)にはじめて左衛門志に任命された後、同7年(1694年)には大夫判官に転じ、同13年(1700年)9月には大夫判官、以降章爾にいたるまでその職を伝えた。享保11年(1726年)には大判事に進み、同19年(1734年)12月には明法博士を兼し、元文2年(1737年)11月には正四位上に昇進した[1][2]

勢多家が法家中原氏の嫡流の地位をえたのは室町中期頃であり、厳密な意味での博士家となったのは江戸時代初期に降ってからと考えられる[1][2]

また、下北面に仕えた人物として、勢多章堅の子の勢多章純がいる[3]

他にも久我家の諸大夫として仕えた辻氏も勢多家の庶流とされ、勢多章堅末子・辻章典から章業 - 章従 - 章達 - 章梅と続いた[4]

家号について

法家中原氏において家号が何時頃より称されたかは定かでないが、『古今著聞集』には「高倉判官章久」の称が見え、文永元年(1264年)4月付『新撰抄』および正応5年(1292年)6月付「検非違使別当宣案」(「鎌倉遺文」巻33所収)等にも中原章久の名がみえる。また『令集解』巻6(職員令)奥書には、建治2年(1276年)に章兼が「正親町判官」と称し、子息章澄が「高倉大夫判官」とよばれていることが記されており、家号の使用が鎌倉中期に遡ることは確かといえる。 なお、法家中原氏の家号としては他に「冷泉」・「大宮」等が存した。室町中期以降には使庁官人の大半が家号を称することが慣例となった。 勢多家の家号は、他の多くの使庁官人が京内の住居地名を家号としていたのとは異なり、近江国栗太郡勢多荘を領したことに由来すると考えられる。応永2年(1395年)の「造内裏段銭并国役引付」に、勢多判官が「江州勢多郡之内、判官久田段銭」を負担していることからもこれは明らかである。

系譜について

勢多家の成立と系譜

脚注

Related Articles

Wikiwand AI