千葉さな子
幕末から明治時代の女性
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生涯
天保9年(1838年)、北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女として誕生。兄に千葉重太郎がいる。北辰一刀流の剣術を学び、特に小太刀に優れ、10代の頃に皆伝の腕前に達したという。また、美貌で知られ、「千葉の鬼小町」「小千葉小町」と呼ばれたという。宇和島藩8代藩主・伊達宗城が残した記録をまとめた『稿本藍山公記(こうほんらんざんこうき)』[3]には、安政3年(1856年)に19歳だった佐那が伊達家の姫君の剣術師範として伊達屋敷に通っていたこと、後に9代藩主となる伊達宗徳(当時27歳)と立ち会って勝ったことが記されている。「左那ハ、容色モ、両御殿中、第一ニテ」(佐那は2つの伊達江戸屋敷に出入りする女性の中で一番美人である)という宗城の感想も残っている[4]。
のちに坂本龍馬と知り合い、さな子の回想によると安政5年(1858年)頃に婚約したという[5]。龍馬は姉・乙女宛ての手紙で「(佐那は)今年26歳で、馬によく乗り、剣もよほど強く、長刀もできて、力は並の男よりも強く、顔は平井(加尾)よりも少しよい」と評している[6]。父・定吉は結婚のために坂本家の紋付を仕立てたが、龍馬の帰国後は疎遠になった。後に龍馬の死を知らされるとこの片袖を形見とした。

維新後、鳥取県・京都府・北海道開拓使の官吏として出仕した兄・重太郎が、父・定吉の死から2年あまり後の明治15年(1882年)1月、京都に向かうことになり、さな子も兄に同伴する。同年9月から明治21年(1888年)2月まで学習院女子部(華族女学校)に舎監として奉職した後、同年8月に東京千住(現在の足立区千住仲町付近)で家伝の灸を生業として千葉灸冶院を開業して過ごした。その間、明治18年(1885年)5月に兄・重太郎が死去。さらに、亡き妹・幾久の長男を「龍太」と名付け養子にしたが、龍太は明治28年(1895年)に夭折。さな子も翌明治29年(1896年)に59歳でこの地で死去した[7]。
なお、龍馬の死後も彼を想い、一生を独身で過ごしたと伝えられるが、元鳥取藩士・山口菊次郎と明治7年(1874年)に結婚したとする明治の新聞記事が2010年に発見された[8]。記事では、山口菊次郎とは数年で離縁、その後は独身で過ごしたとされている。宮川禎一京都国立博物館考古室長は「事実だとすれば衝撃的な発見」と述べている[9]。
また、司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく 夜話』(朝日文庫)では、「謙明の死後、豊次はさな子を甲府の小田切家にひきとり、余生を送らせた」と、彼女が晩年を甲府で暮らしたとする記述がある。
墓所
坂本龍馬との関係
坂本龍馬との恋については、龍馬に関する最初の伝記小説である坂崎紫瀾『汗血千里駒』に書かれている。龍馬の許婚としてのさな子は、実家の坂本家からある程度認識されていたように思われる。龍馬が実家に宛てた書簡には、さな子に対する好意にあふれた表現が使われている。龍馬の妻となったおりょうによるさな子評が悪意に満ちている[13]ことからも、龍馬とさな子との関係は深かったと推定される。
司馬遼太郎の小説などによると、さな子が龍馬に想いを告げた時、龍馬は自分の紋付の片袖を破り形見として渡したと描かれている。さな子が形見としていたこの紋付の袖についても諸説があり、龍馬が千葉家に婚約の証として渡したとする説もあるが、実は紋付は龍馬に渡すべく千葉家の方から準備したものであり、さな子がそれを龍馬の形見としていたとする説もある。