南部利視
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宝永5年(1708年)、第5代藩主・南部信恩の次男として誕生。信恩の死後に生まれたため、叔父の利幹が6代藩主となった。幼少時は毛馬内直道が近習を務めた。享保10年(1725年)7月21日、利幹の末期養子として家督を継いだ。同年7月28日、8代将軍・徳川吉宗に御目見した。同年12月18日、従五位下・修理大夫に叙任した。
享保11年(1726年)、池田澄古(鳥取藩主池田吉泰の弟)を介して、金沢藩主前田吉徳に対して旧交回復を申し入れている。後に元文3年(1738年)頃に第2代藩主南部利直が金沢藩祖前田利家の偏諱を得た故事に倣って偏諱拝領を申し入れた。吉徳は差し支えないとしたため、「利視」と改名した。以降、盛岡藩では世子は南部家の通字である「信○」を名乗り、家督継承後に「利○」と改名する慣例となったという[1]。
寛延2年(1750年)12月18日、従四位下に昇進する。寛保4年(1744年)1月27日、頭髪の薄さから幕府に惣髪願いを出し、許可されている。
藩主の就任当時は18歳で、家老・中野光康(吉兵衛)に藩政を委ねた。しかし、中野は前藩主時代の倹約政策を破棄して旧制度を復活させたため、翌年には参勤交代の下向の費用に窮する事態となる。なお、藩主・利視は「頗る遊狩を好み、普く領内を巡視せるを以て、能く風俗を諳じ民情」(『南部史要』)に通じていたという。
長男の信伝は旗本南部信弥の養子としており、前藩主・利幹の長男(利視の従弟)利雄を養子にして家督を継がせた。宝暦2年(1752年)に死去した。
系譜
子女は11男8女、うち1人は養女