古市利三郎

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古市ふるいち 利三郎りさぶろう
誕生 1866年4月24日
福井県福井市宝永町
(旧→松ケ枝下町)
死没 1944年10月6日
享年79歳)
栃木県宇都宮市戸祭町
職業 官吏師範学校長
国籍 日本の旗 日本
市民権 福井藩士福井県士族
教育 福井県師範学校
和歌山県師範学校
沖縄県師範学校
栃木県女子師範学校
岩手県師範学校
最終学歴 東京高等師範学校
文学士
代表作 『農村教育と地方改良』(1916年)
主な受賞歴 正四位
JPN_Zuiho-sho_4Class_BAR 勲四等瑞宝章
勲五等瑞宝章
勲六等瑞宝章
紀元二千六百年祝典記念章
配偶者 古市 ふよ(妻)
親族 古市 勘十郎(父)
古市 勘兵衛(祖父)
署名
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古市 利三郎(ふるいち りさぶろう、1866年慶應2年〉4月24日 - 1944年昭和19年〉10月6日)は、日本の教育者高級官吏府県立師範学校長、全国師範学校長会会長。位階正四位勲等勲四等

福井藩士古市勘十郎の長男として1866年4月24日に生まれる[1][2]1888年4月2日東京高等師範学校を卒業[3]した後に、福井県師範学校教諭和歌山県師範学校長沖縄県師範学校長栃木県女子師範学校長岩手県師範学校長を歴任した[1]

兼任して、紀伊教育会代表[4]、沖縄教育会副会長[5]、栃木県教育会代議員[4]、岩手県教育会副会長[6]、また、岩手県立図書館館長[7]、全国師範学校長会会長[8]を務めた。

和歌山県立盲唖学校の土台を設立し[9]沖縄県女子師範学校を設置し[10]岩手県女子師範学校を設置し[11]、雑誌『岩手教育』を立ち上げ、初代編集長となった[12]1930年3月22日退官し、正四位勲四等に叙された[13][14]

なお、越前國栂野村(現福井市栂野町)の祖父古市勘兵衛家は、越前国府中(現在の越前市)でとがのや呉服店を創業した古市幸吉を分家として輩出した。分家先の古市幸昌の長男古市昌一日本大学の教授、親族の木谷要一東京帝国大学の助教授を経て旅順工科大学の教授を務める等、親族に教育者がいることでも知られている。

生涯

学生~福井師範時代(1884年〜1902年)

1884年4月 福井県師範学校を卒業し、東京高等師範学校の初等中学師範学科に入学[15]。入学試験の科目は、諮問国語漢文英語数学理科歴史地理で、倍率は5倍〜10倍ほどであった[16][17]高等師範帝国大学の難度はほぼ同列であったとされる(進学先別に、旧制中学における100人中の平均席順が帝国大学は25.1、高等師範は26.0)[18]

東京高師は1886年に勅令を受け、校長は山川浩となり、従来の小学校・中学校の教員養成という目的から尋常師範学校等の学校長及び教員を養成する目的へと変化する。1888年4月卒業であるから、まさにその過渡期に在学していた。初等中学師範学科の生徒心得には次のように記されている。

「当校の生徒は、将来人々の師となるべき者であるため、その責務は非常に重い。このため、自らを律し、知識を磨き、心身を健やかに保ち、完全な人物を目指さなければならない。」[19]

在学中は、修身学倫理学)・教育学和漢文英語学代数学幾何学地文学歴史学生理学物理学植物学金石学化学経済学心理学図画唱歌体操実地授業などの諸科目を学んだ[19]。特に重要であった修身学については、教師であったウォルター・デニング倫理学講義を受けて「修身科において倫理学の講義を行うための架け橋となる講義であった」と述べた記録がある[20]。その講義はアレクサンダー・ベインの『Moral Science』[21]という倫理学の解説書を用いて行われ、ジョン・スチュアート・ミル等に代表される「英国流の功利主義」を学んだ。

1888年4月 東京高等師範学校の初等中学師範学科を卒業し、同時に教員免許を取得[3][22]

1888年4月 福井県師範学校の教諭に就任[23]教育学博物学化学を教えた[23]修身学は校長となってから教え続けることになる。

1891年 父親の古市勘十郎が逝去し、家督を相続する[1]。古市勘十郎は、古市勘兵衛家から分家した福井県士族[1]であり、福井藩の奉書紬を博覧会に松ヶ枝下町から出展している記録が残っている[24]

1891年6月 幕末の福井藩松平春嶽一周忌旧藩士等が運正寺の廟所石燈籠を奉納した。石燈籠の奥には寄付者名を刻んだ名列碑があり、そこに古市利三郎の名前がある[25]

1891年8月 勅令第172号『府県立師範学校長任命及俸給令』により、師範学校長は従前の「奏任待遇」から純然たる官吏の地位となる[26]

1892年9月 奏任待遇。当時は教諭なので「待遇」に留まる[27]

1892年~1897年 文官普通試験委員、小学校教員銓衡委員、小学校図書審査委員、師範学校建築調査委員、福井師範舎監長教頭)などを務める[2][28]

1899年11月 正八位[29]。公文書には奏任待遇となってから7年以上の勤労によると記されている[2]。上の履歴書は、その勤労を示すため提出された。

回想 『福井県師範学校史』において、次のように回想されている。

福井藩士の古市利三郎先生は博物を教えた。舎監長をやり、教頭として長く本校教育に尽した。」[30]

「古市利三郎 本県の人、明治二十一年高等師範卒業、直に本校教諭に就任、容貌正整紳士の風あり、爾来十四年間終始一日の如く、主に教頭として勤務し、その受持学科も草創時代のこととて教育化学博物等文理科の諸学科に亘った。教科書の説明が勢いその主となった。この"説明(ときあかし)"なる語をしきりに常用されたので六十余年後の今もなお耳底にこびりついている。」[23]

 

和歌山師範時代(1902年〜1912年)

1902年12月 和歌山県師範学校の校長に就任[31]修身学化学も教えた[32]。兼任して、紀伊教育会の代表も務めた[4]。こうした当時の地方教育会は一般に「国家の教育政策を補完するとともに教育関係者による職能団体として機能した」[33]と説明される。

1902年12月 高等官七等〔七等・正八〕[31]

1903年4月 従七位〔七等・従七〕[34]

1905年4月 高等官六等〔六等・従七〕[35]

1905年6月 正七位〔六等・正七〕[36]

1907年6月 勅令第249号『府県立師範学校長任命及俸給令中改正』により、府県立師範学校長は高等官八等~五等とされ、ただし特に功労あり5年以上高等官五等にある者は高等官四等になることが出来ると明文に規定された[37]。1910年に『高等官官等俸給令』に一本化されるが、高等官四等までという内容は同一である[38]

1907年7月 全国師範学校長会議に出席(写真あり)[39]

1908年2月 高等官五等〔五等・正七〕[40]

1908年5月 従六位〔五等・従六〕[41]

1909年6月 勲六等瑞宝章〔五等・従六・勲六〕[42]

1909年8月 『帝国教育』にて『和歌山県の小学校』と題し寄稿[43]

訓練の方面、教授の方面、管理の方面、総評及び意見の4章構成。教授の方面では各教科の種々の問題を明らかにし、管理の方面では建築(採光や勾配)や学校衛生(トラホームの対策)、活動主義への批判を展開する。総評及び意見では、教員は教授法及び各教科の研究が足りておらず(特に図画科体操科歌唱科)、また教員の数も不足しており、これらの解決の為に師範学校を軸として師範教育を強化する必要があると述べる。

1909年9月 和歌山師範に盲唖部を設立する[9]。この盲唖教育は和歌山県で初めての取り組みであり、盲唖部が土台となり、後に和歌山県立盲唖学校となる。ある教諭は「村の聾唖の友となりたい申し出ると、古市校長から師範学校の中に聾唖学級を作るから主任になれと命じられ、夢心地で一つ返事でお引受けをした」と回想している[44]

1910年2月 『帝国教育』にて『東牟婁郡の教育』と題し寄稿[45]

13の章からなる文章で、特に1章の教育勅語及び戊申詔書では、それらの聖旨を如何にして生徒に会得させるかについてその取り組み方が詳細に記述されている。

1910年5月 大隈重信を講演に招く[46]

1911年3月 和歌山師範教諭の著作『和歌山県地誌』の序言を頼まれ執筆[47]

地理学は、知識や知力の会得だけでなく、感情の養成にも資する学問であると記す。「すなわち記憶力を養成し、多方面に対する観察力を発達させ、また常に推理的な考察力を錬成すると同時に、地理学は日常われわれの生活に密接に関係がある事項により成るものであって、実社会の実相を知り、生活に必須であるいわゆる常識を養成する上でも効果的である。そして郷里および自国の現状を認識させることによって、自己の属する郷土および国土について、地理に関する事柄と人間生活に関する事柄の正当な位置を自覚し、これに公平にして着実なる愛郷心愛国心を要請することが出来る。」

1911年9月 和歌山三田会に出席[48]。時の慶應義塾の塾長であった鎌田栄吉が帝国教育会長であり、『帝国教育』に会員として寄稿していた関係で繋がりがあったと思われる。

回想 古市利三郎に招待され和歌山師範教諭となった市川新松氏(鉱物学者)は次のように回想する[49]

和歌山に行って見ると、理科博物等の設備にも三万円を投ぜられたというが、実に立派なものであった。博物標本室などには、古市先生が生徒と共に集められた郷土の標本が充満していた。また古市先生は園芸に趣味を持たれたので、邸内に菜園を設け奥方と共に暇さへあれば自ら耕し、自ら施肥して楽しんでおられた。従ってその蔬菜は学校のものよりも遙かによく育っていた。」

「古市先生は校長としての職務中でも、いわゆる英雄閑日月ありの態度がみられ、多忙の中から時々山に海に採集を試みられ、私もお供をしたこともあった。また私が甲州で集めた水晶は、私と共に紀州に運ぶことになった。古市先生は水晶にも趣味を持たれ愛翫せられた。教育に熱心な方が学校を訪問せられた時には、大抵私の水晶標本を紹介せられたので、その都度私は宿から水晶持参で、校長邸に説明に参上したことが多かった。恰もその頃の校長邸は、私の水晶見学者の待合所のようであった。」

 

沖縄師範時代(1912年〜1915年)

1912年10月 沖縄県師範学校の校長に就任。兼任して、沖縄教育会の理事及び副会長も務めた[50][51]

1913年5月孔子廟の修繕に当たって、寄付金の募集を呼び掛けたことがあり、それには多彩にして著名、公職にある者たちが多く参加していた」とされるが、古市利三郎は23人の賛助員の1人である[52][53]

1914年3月 正六位〔五等・正六・勲六〕[54]

1915年3月 『琉球新報』にて『教育視察所感』と題し、視察の所感と共に視察法などを語っている[55]

「私の視察法を率直に申すれば、結果を見て教授訓練の良否を判断するのです。それで私が教授を見る時はいつも教場の中に侵入してぐるぐる机の間を回って教授のお邪魔をするのです。教授の方法がいくら新しくっても、教授振りがいくらうまくても、児童の成績が悪ければその教授は不成功といわねばなりません。」

「そこで、児童成績の結果と放課後における児童の遊び振りとを見れば、その校の教授訓練が如何に行き届いているかが直に判断がつくのです。要するに現今の教授視察者の評する所を聞いてみると、結果を見ずして形式ばかり見る傾向があるようです。それだから教授者も形式のみに腐心していい成績をあげることが出来ないようになる。そこで私の持論は結果をみた後に何処に病根があるかを調査するようにしています。」

この際の視察は、台湾修士論文にて引用されている[56]

1915年4月 『女子師範独立の犠』と題し、沖縄において沖縄県女子師範学校を設置した際の事情を語っている(写真あり)[10]。女子教育の重要性を強く感じ、しかし現在の師範学校は狭く拡張の余地が無い為、県知事を説得し女子師範を比較的広い高等女学校に設置させた。この時、一時的に高等女学校校長の事務を担当した。この際の記述は、沖縄師範に係る研究論文にて引用されている[57]

回想 当時の女子師範の学生は「古市校長に送られて東京旅行をやって帰ってみると女子師範が創立されて、新校長蟹江先生に通堂でお迎へいただいたのを思い出します」と回想する[58]

回想 沖縄師範の教諭は「次の古市校長は至って穏健着実で中道を踏む御方、実に(西村校長+森山校長)÷2=古市校長 で余りに事新しき事や急進的の態度は取られないようだったが、前二代の後を辿って長伸短補の方針で着々と実績を挙ぐことに努力された」と回想する[59]

回想 『大日本現代教育家銘鑒』では以下のように記されている(写真あり)[60]

「生徒の心身を教養し、部下職員に万事を一任してそれぞれが理想的な活動を発揮できるようにすることが、その主義であった。黒住教の教義尊徳翁の報徳教経世論などの和洋の書物が机の上に並んでいる。これは、古市校長の主義と方針が、これらの書物とよく似ているからではないだろうか。」

「野心に溢れた人物というよりは、むしろ暖かい心で人を包み込む器量と気質を持っていて、一度氏と接すると、思いがけず春を迎えたような温かい気持ちになる。謙虚で穏やかでありながら、決して外見を飾り立てようとはせず、公平で私心がなく、名声や権力に囚われず、ひたすら公務に忠実であったその誠実な様子は、以前勤務していた和歌山県において整備された校舎や充実した書籍という形で不朽の輝きとして残っている。」

「氏のご家庭は温かい雰囲気に満ちており、室内の装飾や庭の盆栽に至るまで氏の趣味が反映されており、中江藤樹先生のような人物を彷彿させる。現在、県下の師弟が氏のもとに集まっている様子は驚くべき光景で、これはまさに徳が身についた人の姿である。」

 

栃木女子師範時代(1915年〜1921年)

1915年4月 栃木県女子師範学校の校長に就任。修身学も教えた[61]。兼任して、栃木県教育会の代議員も務めた[62]

1915年4月 高等官四等〔四等・正六・勲六〕[63]

1916年8月 勲五等瑞宝章〔四等・正六・勲五〕[64]

1916年3月 来賓として行った祝辞が次のように紹介されている[65]

「来賓、当県女子師範学校長古市利三郎氏の講演的祝辞が約一時間に渡って行われた。題は犠牲的精神というもので、この精神は他人の為には自分の利害を考慮せずに猛進する精神を言う。」

「日本特有の大和魂は多量にこの精神を含有していると敷衍してから、藤田東湖先生が安政の大地震の折に母を救おうとして倒れた事や福井県某村の綱女という小娘が主人の女児を助けたため自身は獰猛な狼に全身をかみ切られて死んだ事(略)はみな誠に尊い鑑であると述べ、最後に女子においても極めて必要な理由をあげ、その養成法を説いて生徒の注意を促したが、その豊富な音量と荘重な語調でしかも平易であった為か、比較的長い話であったけれども少しも倦怠の色は現れなかった。」

1916年8月 『農村教育と地方改良』を執筆[66]

地方改良を行うとして実行していくのは人であるから、地方人の頭を改良するのが第一である。人はみな多少異なる思想や感情を持つものであり、人々をまとめる中心人物が必要である。であるから、優良村とされる村には必ず優良村長がいる。しかし、優良村長が全ての村に居る訳では無いから、かなり高い質が担保されている(①相当程度の人格者であり、②職責上常に知徳の修養を行い、③若い地方人を指導する立場にある)小学校長が④地方改良に熱心であるならば、中心人物として望ましいと主張し、その成功例を数例記し、さらには自らの師範学校長としての経験から小学校長が出来る策を述べるという流れである。

1917年1月 勅令第六号『高等官官等俸給令中改正』により、7年以上高等官四等にあり功績ある師範学校長は道府県一人に限り高等官三等になることが出来ると明文に規定された[67]

1919年10月 従五位〔四等・従五・勲五〕[68]

1920年12月 高等官三等〔三等・従五・勲五〕[69]

1919年の『文部省職員録』によれば、師範学校長7人(約100人中)が三等となっている[70]

回想 『野州紳士録』では以下のように記されている(写真あり)[15]

「氏は福井県福井市の出身。福井は、維新の時代に松平春嶽のような偉大な人物を輩出した場所であり、風習は誠実で質素である。おそらく、そのような偉人の影響によるものだろう、氏は、このような土地に生まれ、性格が温厚で真面目、他人のために尽力して疲れることを知らない性質を深く身につけていると言える。」

和歌山県が初等教育の発展を成し遂げたのは、彼が師範学校長として、その役割をうまく果たしたからであると称賛されている。その後、沖縄県の教育は氏の力を必要とするとの理由で、同県の師範学校長に転任した。以来、教育界に存在していた問題を刷新し、沖縄県の教育に新たな面目を与えたと称されている。」

「その後、栃木県の県立女子師範学校長に転任して今日に及ぶ。栃木県の女子教育は他県と比較すると、まだ振るわない部分もある。しかし、彼の手腕によって開発すべき部分が多く残されており、過去の教育界における功績を考えると、その改善は彼にとっては容易いことであろう。」

 

岩手師範時代(1921年〜1930年)

1921年9月 岩手県師範学校の校長に就任。修身学法学も教えた[71][72]。兼任して、岩手県教育会の常任理事及び副会長も務めた[73][74][75]。岩手県教育会は現在の一般財団法人岩手教育館の前身[76]

1922年10月 勲四等瑞宝章〔三等・従五・勲四〕[77]

1923年3月 古市誠を養子とする。

古市誠(1894-1957)は、農学博士北大[78]従四位[79][80]。著作には『園芸食品加工法』『果実蔬菜加工の実際』がある[81][82]福井県福井市で生まれ、和歌山中学校、次いで北海道大学を卒業し、北海道農業会研究所長鳥取大学教授台北帝国大学教授弘前大学初代農学部長などを歴任した[83][84][85]弘前大学農学部の中庭には「初代学部長 古市誠 博士」と記された木標がある[86]。没後については『青森県農業試験場六十年史』に「古市よし子さんは弘前大学農学部長であった夫君の亡き後、上京して杉並にささやかな家をもち、長男(早大生)の成長を楽しみに、つつましい生活をして居られます」とある[87]

1923年3月 岩手県女子師範学校を設置する[11]

1923年8月 岩手教育会の機関誌である『岩手教育』の初代編集委員長となる[88]。創刊の際には以下のように記している。

大方諸賢、大正十二年八月一日を以て、ここに月間雑誌『岩手教育』が創刊せられました。一切の編輯は岩手県教育会之に当り一切の経営は赤澤号店株式会社東山堂の両者が之に任じます。既にご承知の通り、従来永く本会編輯のもとに発行し来つた雑誌『岩手学事彙報』は、発行経営者九皐堂の営業廃止とともに、廃刊の余儀なきに至り、本会は機関雑誌として新しく刊行することの必要を感じ、種々考究協議の結果、従来の経営者と離れて、上記の如く相定まりここに新装を凝らして諸賢に見ゆることとなつたのであります。」[12]

1924年7月 日本赤十字社特別社員に推薦される[89]

1924年10月 正五位〔三等・正五・勲四〕[90]

1925年〜1927年 岩手県立図書館の三代目館長に就任[7]。当時の統計によれば、蔵書数は18,466冊で、予算総額は10,934円、1年間の閲覧人数は45,139人であった[91]。1926年11月には文部省にて開催された図書館長会議に列席している(写真あり)[92]

1929年6月 『福井県人之精華』に掲載(写真あり)[93]

1929年12月 従四位〔三等・従四・勲四〕[94]

1930年3月 退官[95]。この時2,300円の賞与を受け取っており、俸給は3,968円(本俸3,800円、加俸168円)とある[96]。本俸3,800円は一級俸であり、師範学校長としては最上位の俸給である[97]。加俸168円は1925年に勤労により賜ったものである[98]

1930年4月 正四位〔三等・正四・勲四〕[99]

当時の師範学校長の待遇については1930年の『文部省職員録』から窺い知ることができる。約100人中、三等・従四・勲四が4人、三等・従四・勲三が2人存在しており、ここが到達点であった[100]。2年後の1932年には、師範学校長に勅任待遇が認められ、5人が勅任待遇となった。三等・従四・勲四の人物は6人中4人が勅任待遇となっている[101]

1930年6月 岩手教育会の理事を辞任し、次の岩手師範学校長となる瀬谷真吉郎が理事に就任する[102]

1930年~1944年 1942年11月15日には日本紳士録に栃木県宇都宮市から所得税を支払っている記録があるため存命であった[103]。1944年10月16日に養子である古市誠が公示催告により最終株主名義人が古市利三郎である第一勧業銀行の株券80枚の除権決定の申し立てを行っている[104]

「古市利三郎夫妻は船の事故で亡くなり、夫妻に子は無かったため、利三郎の家は絶えた。船の事故は、国の用事で台湾に向かう途中に起きた。時期は昭和5~10年頃と思われる。」[105]

との言い伝えがあることから、これと照応するに、実際は昭和19年(1944年)に国の用事で台湾に行く途中の船の事故で利三郎は亡くなり、そのため息子である誠は公示催告による除権決定により相続を行う他無かったものと思われる。船の事故から遠くない間に除権決定の申立が行われたものと考えられるため、その日付である1944年10月6日を死亡日と仮置く。

1945年2月 紀元二千六百年祝典記念章[106]。これは、1940年の紀元二千六百年式典に招かれた者、および式典の事務並びに要務に関与した者に与えられた。

回想 全国師範学校長会会長となっていたことが、菊池象司の発言によりわかる。「岩手師範には、全国師範学校長会の会長をつとめていた古市利三郎が校長として着任している。こうした優秀な人材で、よき方針のもとに円滑な運営が期待され、情熱を傾けていたものと考える。」[8]

回想 当時の岩手師範の生徒が「学校長は奏任官待遇の古市利三郎校長で、高等農林の校長と共に県知事以上の高官の人と聞いている」と回想している[107]

回想 当時の岩手師範の生徒が「当時古市利三郎校長は、県立学校長中最高位に位置し、式日には金モール付きの大礼服を着用し、威風あたりを払って私共は「偉い人なんだな」と畏敬の念をいだいていたものだった」と回想している[108]

回想 元岩手県議会副議長の石橋寿男は次のように回想する。

「本にも書いてあるが、古市利三郎という校長なんですよね、校長の卒業の時の訓示があるわけだ。君達を四年間預かって各先生がいろいろお相手したと、だけれども今日卒業していく君たちは、大工でいえば荒カンナをかけただけだ、これに仕上げカンナをかけるのは君たち自身だよ。こういう訓示をしたんだなあ、この影響もずい分ある。(略)これですっかり教育者としての気持を固めて卒業したんです。」[109]

回想 岩手師範時代を総括して「校長の古市利三郎氏は人も知る大先輩。老功勝山校長時代の岩手師範学校暗黒時代の後をうけて、とにかく今日の設備と整頓さをもった大師範学校を築きあげた」と述べられている[110]

 

公職の期間

公職
先代
福井県師範学校教諭
1888年4月-1902年12月
次代
先代
角谷源之助
和歌山県師範学校長
1902年12月-1912年10月
次代
有坂幾造
先代
森山辰之助
沖縄県師範学校長
1912年10月-1915年4月
次代
保田銓次郎
先代
東基吉
栃木県女子師範学校長
1915年4月-1921年9月
次代
勝山信司
先代
勝山信司
岩手県師範学校長
1921年9月-1930年3月
次代
瀬谷真吉郎

栄典

位階

1899年11月30日[29] - 正八位

1903年4月10日[34] - 従七位

1905年6月27日[36] - 正七位

1908年5月30日[41] - 従六位

1914年3月30日[54] - 正六位

1919年10月20日[68] - 従五位

1924年10月23日[90] - 正五位

1929年12月16日[94] - 従四位

1930年4月15日[99] - 正四位

 

勲等

1909年6月28日[42] - 勲六等瑞宝章

1916年8月28日[64] - 勲五等瑞宝章

1922年10月27日[77] - 勲四等瑞宝章

1945年2月22日[106] - 紀元二千六百年祝典記念章

勲四等瑞宝章

 

高等官

1902年11月29日[31] - 高等官七等奏任官五等

1905年4月19日[35] - 高等官六等奏任官四等

1908年2月14日[40] - 高等官五等奏任官三等

1915年4月27日[63] - 高等官四等奏任官二等

1920年12月6日[69] - 高等官三等奏任官一等

系譜

[現代訳] 農村教育と地方改良

脚注

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