合田洋
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12歳からゴルフを始め、千葉日本大学第一高等学校に進学。卒業後は茨城県の龍ヶ崎カントリー倶楽部に研修生として入り[1]、1984年にプロへ転向。1985年の「美津濃オープン」でデビューを果たすも低迷が続き、 1987年の水戸グリーンオープンでは初日7アンダーで首位に立ち優勝。その後の活躍も目覚しく、1992年には「後楽園カップ」と「スポーツ振興オープン」の両グローイングツアーでも優勝[2]。1993年までは賞金ランキング93位が最高であった[1]が、1994年5月に岐阜県のレイクグリーンGCで開催された日本プロでは最終日を通算7アンダーの首位で迎える。2位・海老原清治に5打差、3位・尾崎将司に6打差という状況で迎えた。しかし尾崎がバーディーを重ねて追い上げる中、合田は15番、16番で連続ボギーとスコアを落とし、1打差となった。18番パー4の2打目、尾崎がパーセーブ容易な場所につけた一方、合田はピンから約30ヤード手前のバンカーに捕まった。一般的にサンドウェッジを使用する状況で合田はパターを選択し、観客からどよめきが起きたが3打目をピンまで約2mに寄せ、パーパットも決めた。結果、尾崎もパーでホールアウトしたため通算5アンダーの合田がツアー初優勝を飾った[1]。同年は3,011万円余を獲得し、賞金ランク39位。
1995年にはワールドカップにも出場。団体は佐々木久行とペアを組み、フレッド・カプルス&デービス・ラブ3世(
アメリカ合衆国)、ロバート・アレンビー&ブレット・オーグル(
オーストラリア)に次ぎ、フランク・ノビロ&マイケル・キャンベル(
ニュージーランド)、ジャン・ヴァン・デ・ヴェルデ&ジャン・ルイ・ゲピー(
フランス)、ダレン・クラーク&フィリップ・ウォルトン(
アイルランド)、ヘンドリック・バーマン&レティーフ・グーセン(
南アフリカ共和国)、ジャルモ・サンデリン&イェスパー・パーネビック(
スウェーデン)、ラファエル・アラルコン&エステバン・トレド(
メキシコ)、トニー・ジョンストン&マーク・マクナルティ(
ジンバブエ)を抑え、アンドリュー・コルタート&サム・トーランス(
スコットランド)と並ぶ3位タイと健闘[1]。
以後は低迷が続いたが、2003年のアジア・ジャパン沖縄オープンでは最終日を単独首位で迎えたが谷原秀人に逆転され2位タイに終わった[3]。
成績
日本ツアー優勝 (1)
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| No. | 日程 | 大会 | スコア | 2位との差 | 2位(タイ) |
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| 1 | 1994年5月12-15日 | 日本プロゴルフ選手権 | −5 (66-73-67-73=279) | 1打 |