奈良時代から平安時代に見える郡名。平城宮出土木簡に「阿波国名方郡土師郷土師部広友 米五斗」(同前15)とあるのが初見。また長岡京跡においても8世紀末の溝から「阿波国名方郡井上庸」とある木簡が出土している(木簡研究1)。
律令制の執行によって阿波国が成立すると、当郡に国府(現徳島市国府町府中)が置かれ、阿波国の政治・経済・文化の中心地となった。国府の政庁跡は「府中の宮」と通称される大御和神社付近と推定される。また国分寺は国庁推定値の南南西約1,200mの地点に建設され、国分尼寺は国庁の西方約1,00mの地点に建設され、国分尼寺跡は現在国定指定史跡となっている。
当郡に居住した氏族としては「続日本紀」神護景雲元年3月16日条に見える粟凡直氏、「三代実録」貞観6年4月22日条に見える海直氏、同書同年8月8日条に見える安曇部氏、同書同7年11月2日条に見える忌部氏などがいた。
『延喜式』神名帳に記される郡内の式内社。