含翠堂
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| 含翠堂 | |
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| 過去の名称 | 老松堂(ろうしょうどう) |
| 国公私立の別 | 私立学校 |
| 設置者 | 平野七名家 |
| 学区 | 摂津国住吉郡平野郷 |
| 理念 | 入学の節は貴賎を選ばす、師弟の盃あるべし |
| 設立年月日 | 1717年(享保2年) |
| 創立者 | 土橋友直ほか |
| 閉校年月日 | 1872年(明治5年) |
| 所在地 |
井上正臣邸 摂津国住吉郡市町(平野郷町市町)河骨池筋西・猿屋小路南・市門筋北 (現:大阪府大阪市平野区平野宮町二丁目9-22地先)[1] |
含翠堂(がんすいどう)は、かつて摂津国住吉郡市町(平野郷町市町)に存在した民間学問所(第三種郷学)である。1717年(享保2年)に、平野惣年寄を務める平野七名家の土橋友直ら儒学講習会[注 1]が設立した。
別名・原野学問所とも称したことから日本初の民間学問所として知られ、のちに大坂で設立される懐徳堂に大きな影響を与えた。
万代の みどりをふくむ このもとに 聖のふみの まとゐひろめん — 含翠堂
含翠堂は商業界の子弟、および当時商都として栄えた平野周辺の庶民・住民を対象に教育を施し、文化活動を主導した。維持費の調達については、七名家をはじめとした地域の有力者が出し合う形式がとられた[注 2]。
平野での儒学、国学、医学や道徳などの振興に貢献したほか、災害に備えて積立を行い、飢饉では粥の炊き出しなどの住民に対する救済活動も行い、実際に1732年(享保17年)西日本一帯で起こった飢饉において、含翠堂は大念仏寺にて数千人に対する炊き出しを行った。また、時には連歌会[9]や俳諧なども催されて、学費を払えば身分に関わらず学べるなど、後進の郷学には見られない特色も備えていた[10]。
- 教育内容は儒学が中心であるが特定の学統によるものではなく、町人としての実践道徳に重点を置いている。
- 設立維持者と教師とが分離しており、教育は教師に任されている。
- 経済的基礎は有志の共同出資によっている。
- 権力に公認されている。
沿革
創立
平野では、元禄年間より三上如幽らによって儒学の講習会を開く試みがあったが、当時の平野に多かった儒学に批判的な一向宗徒の町人によってすぐに潰えた[11]。しかし、三上の娘婿で、和泉国貝塚から平野に来た土橋友直が、土橋宗信、成安栄信、徳田宗雪、間元之進、井上正臣とともに[12]1717年(享保2年)、儒学の講習会老松堂(ろうしょうどう)を正臣邸で開いた。これが含翠堂の起源に位置づけられていて[13]、老松堂の名は、正臣邸に生えていた松の大木に由来する[11]。ほかに創設を援助するなどして運営に関わった人物には、末吉平次郎増篤や辻葩新五兵衛宗孝などの七名家関係の人物を始めとして、平野商人・井筒屋清右衛門や、懐徳堂創立五同志である三輪執斎、富永仲基の父・富永芳春などもいた[11]。
老松堂・含翠堂が設立された理由としては、当時危ぶまれていた平野や平野七名家の社会的地位低下に歯止めをかけることが挙げられる[11]。商都であった平野は繊維業を主力産業としており、大坂を介さない独自の販路(直積み)を通して江戸など諸国と交易を行っていたが、大坂平野町の繊維問屋の勢力拡大に押されている状況であった[11]。また、大和川の付け替えの影響によって平野川の水量が低下し、平野ひいては河内国の大動脈ともいえる柏原船が機能不全に陥っていた[11]。七名家についても同様に、新興の豪商が多く現れたことによって権威に陰りが見え始め、長寳寺観音講を制定したり、吉田神社から特許を得るなどして、特権を維持しようとしていたということも背景にある[11]。
含翠堂に改める
のちに大坂の学問所・懐徳堂の初代学主となる三宅石庵は、含翠堂でたびたび講義を行っていた[11]。老松堂の名を含翠堂(がんすいどう)と改めることを提案したのも石庵で、中国宋代の詩人范質の五言古詩『戒従子杲』の一節「遅々澗畔松 鬱々含晩翠」が出典であるという[11][注 3]。含翠堂の名は、遅くとも1720年(享保5年)から使用されている[11]。1724年(享保9年)に享保の大火が起こって石庵の多松堂が全焼し、石庵や五井蘭洲が当地に避難した[11]。この後懐徳堂が落成すると石庵らは大坂に戻り、井上正臣も懐徳堂での講義を行うため、含翠堂院長の座を沢田元立に移した[11]。石庵のほかに、儒学者伊藤東涯、東涯の子伊藤善韶、石庵の弟三宅観瀾、懐徳堂学主・中井甃庵・中井竹山・中井履軒などの学者も、含翠堂で教鞭をとった[11]。
1732年(享保17年)には、当時平野を支配した古河藩から毎年米一石分の代銀が含翠堂に給与されることが定められた。これは先述の通り、大念仏寺での大規模な社会貢献活動が大きく評価されたためであった[11]。
1872年(明治5年)の学制発布により閉校し、大阪市立平野小学校に継承された[1][2]。「含翠堂」の木額[14][15]の複製は、現在全興寺に保存されている[要出典]。