四十日抗争
1979年に自由民主党内で起きた派閥同士の闘争
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経緯
抗争勃発
1970年代の与党自民党内の政治勢力は、七日会(田中角栄派)、清和政策研究会(福田赳夫派)、宏池会(大平正芳派)の三大派閥(保守本流)、これに次ぐ中堅派閥の番町政策研究所(三木武夫派)、政策科学研究所(中曾根康弘派)の五派閥の並立状態であり、基本的な対立構造は、田中、大平両派の連合と福田派が対立し、三木派、中曾根派が両陣営の間でバランスをとる、というものであった。1978年の党総裁選では、現職の福田と大平の一騎打ちとなり、田中の大々的な選挙運動の後押しを受けた大平が逆転勝ちを収めて首相の座に就いた。
翌1979年、大平は第35回衆議院議員総選挙に打って出るが、公約に掲げた健全財政化のための消費税導入が「増税方針」と反発を招き、1議席減の敗北。伯仲国会は継続することとなる。敗北した自民党内では、大平の引責辞任を求める声は、特に福田、三木、中曽根の三派を中心に上がった。しかし大平は、続投を表明する。大平の強気の根拠は、田中、大平両派に加え、三木、中曽根両派内にも大平の潜在的支持者はおり、中間派を含めると衆議院のみでは大平支持派と反主流派は互角、参議院を加えると逆転する見込みがあったためである。
両陣営の間で選挙後の党総裁が決まらぬまま日が経ち、首班指名をするための第89回国会は日本国憲法第54条の規定による期限の迫った10月30日に召集されるも、この時点になっても党内は決着を見ず、開会日には首班指名選挙を行うことができなかった。31日、福田・三木・中曽根の三派に自由革新同友会(中川一郎派)を含めた反主流四派は「自民党をよくする会」を結成、主流派の切り崩しに備えた[1]。
この間、大平、福田らは、西村英一党副総裁の仲介で断続的に交渉を行った。まず、首相は大平が続投し、党総裁のみ福田が引き継ぐという「総総分離」を福田が提案するも、大平はこれを拒否。また、新たに「総裁代行」ポストを福田のために設け、党務を担うという案も出され、大平は受け入れるも、三木が反対して潰れる。更に、大平の任期を翌年1月の党大会までとし、そこで総裁改選をする「期限付き続投」案が持ち出された。大平がこれに立候補するつもりであるかは玉虫色であり、福田は三木の要求によって大平に、この時をもって退任する確約を求めたが、大平は「出ないとは言っていない、現に総理である者がいつ辞めるなどとは簡単に言えるものではない」と応じて決裂する[2]。
11月2日、「自民党をよくする会」は総会を開催(衆議院115、参議院36)、福田を首相候補とすることを決定。一方、主流派も党執行部の招集による両院議員総会を開き(衆議院120、参議院74)、大平を首相候補とすることを決定。中曽根派からは後者に5人が流れた[3]。
首班指名選挙
11月6日、遂に大平と福田の間での一本化が行われないまま、首班指名選挙が行われる。
投票結果は以下の通り。衆参両院とも、現職の大平が福田らを決選投票の末上回り、大平の続投が確定する。衆議院では福田とは17票差という僅差であった[4][5]。野党各党は、新自由クラブが1回目から大平に投票した他は決選投票では棄権に回り、また複数の党が協力して決選投票に駒を進めようとする動きも見られなかった。大平派が公明党を、福田派が民社党を取り込む動きもあったが、両党とも決選では棄権を選んでいる。なお、参議院では1回目で社会党の飛鳥田が福田を上回ったため大平と飛鳥田の決選投票となったが、福田派とミニ政党の一部が大平に回った他は棄権に回った[6]。
1回目の投票でいずれの候補も過半数を得なかった場合は得票数上位2名による決選投票を行い、決選投票では単純に多数を得た候補が指名を受ける[8]。表の会派はその院の会派を指し、候補者は別の院における同一政党の会派に属する場合もある。
| 派閥・政党等 | 大平正芳に投票 | 福田赳夫に投票 | 無効票 |
|---|---|---|---|
| 大平派 | 50人 | — | — |
| 田中派 | 48人 | — | — |
| 福田派 | 園田直 | 49人 | — |
| 中曽根派 | 越智伊平 大石千八 木村武千代 野中英二 武藤嘉文 | 34人 | — |
| 三木派 | 有馬元治[注釈 1] 鯨岡兵輔[注釈 1] 塩谷一夫 地崎宇三郎 | 三木武夫 井出一太郎 田中伊三次 石田博英 赤城宗徳 河本敏夫 加藤常太郎 森山欽司 丹羽兵助 毛利松平 渋谷直蔵 海部俊樹 藤井勝志 伊藤宗一郎 野呂恭一 大西正男 谷川和穂 菅波茂 坂本三十次 橋口隆 近藤鉄雄 森美秀 山下徳夫 志賀節 辻英雄 | 北川石松[注釈 1] 工藤巌 |
| 中川グループ | — | 長谷川四郎 松沢雄蔵 長谷川峻 中川一郎 古屋亨 中村弘海 石原慎太郎 上草義輝 高橋辰夫 | — |
| 旧水田派 | 大野明 三原朝雄 中山正暉 | 佐藤文生 稲村左近四郎 | — |
| 旧椎名派 | 綿貫民輔 | 荒舩清十郎 | — |
| 旧石井派 | 坂田道太 | — | — |
| 無派閥 | 内海英男 奥野誠亮 粕谷茂 鴨田利太郎 木村俊夫[注釈 1] 小坂徳三郎 佐藤信二 竹内黎一 浜田幸一 藤田義光 船田元 古井喜実 渡辺美智雄 | — | 相澤英之 小坂善太郎 椎名素夫 根本龍太郎 |
| 自由国民会議 | 田原隆 | — | — |
| 新自由クラブ | 田川誠一 山口敏夫 河野洋平 田島衛 | — | — |
| 無所属 | 田中角栄 橋本登美三郎 渡部正郎 | 佐藤孝行 | 灘尾弘吉(議長[注釈 2]) 西岡武夫 |
中曽根派では、親大平で派閥離脱中の渡辺美智雄に近いグループが大平に投票している。また三木派では、党内右派の福田に与するべきではないとする議員が大平に投票した。
首班指名後
現職総裁の大平が勝利するという表面上は順当な結果に落ち着くと、新政権のポスト配分を巡り、「自民党をよくする会」の各派は浮足立ち、日を置かずして開店休業状態となる。特に党三役は、幹事長に櫻内義雄(中曽根派)、政調会長に安倍晋太郎(福田派)を、それぞれ派を通さずにオファーしており、「よくする会」はこの動きを止められなかった。11月20日、最後まで未定であった文相[注釈 3]のポストが決まり、投開票日から45日目にして、第2次大平内閣は正式に発足。反主流派は最後は腰砕けとなった[9]。
しかし、この党内の激しい抗争によるわだかまりおよび与野党伯仲による国会運営の難航は尾を引き、翌年のハプニング解散につながることになる。
備考
- 11月2日に主流派主導で大平の続投が了承された両院議員総会は、大平が西村副総裁へ進退の一任を決断したのを受けて、首相候補問題と大平首相の責任問題は「党機関へ一任」することから招集されたものである。この「党機関」を、代議士会(衆議院議員のみ)とするか、両院議員総会(参議院議員を含む)とするかを巡って対立があり、衆議院議員のみでは優勢の反主流派は前者、参議院議員を含むと優勢になる主流派は後者を主張して譲らなかった。主流派が両院議員総会を開くことを強行決定すると、反主流派は両院議員総会が行われるはずの党ホールをバリケード封鎖して妨害したが主流派はこれを撤去して、反主流派欠席のまま開催、大平首班を決定した(反主流派は同日に国会内控室で「自民党をよくする会」として福田首班を決定した)。このバリケード撤去の際、撮影のために居並んだメディアの前で浜田幸一が単身、バリケードに使われていたパイプ椅子を放り投げて「もう聞かねえぞ、こうなったら!いいか断っとくけどな、かわいい子供達の時代のために自民党があるっちゅう事を忘れるな!?お前らの為にだけ自民党があるんじゃないぞ!?」と啖呵を切り、これは後年になっても、自民党の派閥抗争や、テレビ文化人として有名になった浜田(ハマコー)の往事の姿として多く取り上げるシーンである[10][11][12][注釈 4]。