1978年自由民主党総裁選挙
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前回の1976年総裁選は、中小派閥から立てられた三木武夫総裁が党内多数派と対立して党内が混乱したことから(三木おろし)、三木退陣後の後継を巡っては、七日会(田中角栄派)、清和政策研究会(福田赳夫派)、宏池会(大平正芳派)の主力三派(保守本流)の間で候補の一本化が行われる。この三派の間では、田中と大平が連合を組んで、最初は田中、田中退陣後は大平を推して、福田と対抗していたが、今回は、先に福田が総理総裁となって1期2年務めた後、大平に禅譲する、という密約がかわされ、福田が未投票当選を果たす(大福密約)。大平は党幹事長として党務を差配し、事実上の福田・大平連立政権の様相を呈する。
しかし福田は、1977年の参院選に勝利したころから、続投への色気を見せ始める。同年末の内閣改造では、中堅派閥である政策科学研究所の中曽根康弘を党総務会長に据え、田中派の大臣ポストを減らすなど、中曽根の引き込みと「大平外し」を始める[2]。
1978年になると、同年秋の公選を見据えた派閥レベルの動きが活発化する。2月中旬には自民党役員会が「派閥活動を自粛するよう申し入れる」と声明し、大福の「政治休戦」と言われたが[3]、18日には大平の地元の自民党香川県連が大平を総裁候補として推薦する決議を行っている[4]。5月26日には読売新聞が「大平氏 公選出馬を決意」と報じる[5]。両院議員による本選挙を行った場合、大平が過半数を獲得すると見込まれていた[6]。一方福田は、大平が出馬しなければ再選後の任期前半で禅譲する、と大平に持ち掛けたが[7]、大平は出馬辞退を受け入れず、「私のことは気にせずあなたの自由におやりになさればいい」とかわし、一本化は失敗する[8]。
福田は衆議院解散・総選挙を行ってそこそこの成果を残し、文句なしの続投を勝ち取ろうとする。総選挙で自民党が勝利すれば福田再選への流れとなり、敗北すれば選挙責任者である幹事長の大平が福田よりも責任を問われることになる。大平サイドは当然反発し、6月6日、金丸信防衛庁長官(田中派)は内閣委員会における答弁の中で「大義なき解散には反対である。解散の閣議があった場合、自分は署名しない」と発言した。16日、国会閉会日の代議士会では大平が「解散はないので、各自平常心で行動してもらいたい」と打ち消した[9]。当時の伯仲国会における政局を理由として解散とするシナリオが考えられたが、自民党幹事長の大平が新自由クラブ幹事長の西岡武夫と話をつけているため、たびたびの政局化しそうな局面でも与野党の折衝が早々にまとまり政局とはならなかった[10]。8月12日に中国との交渉が妥結し日中平和友好条約が調印されたことで福田政権の人気が上昇し、解散が無くとも福田の再選が見込まれるようになり、また条約批准の日程上も解散は難しくなった[11][注釈 1]。さらに8月27日には大平の地元の香川県知事選挙で自民党公認の大野功統が落選し大平の失点となり、福田の再選を後押しする要素に数えられた[12]。これらの情勢の下、衆議院解散は行われなかった。
10月14日の記者会見で、大平は「この臨時国会で大福体制は終焉する」と発言し、大福対決の姿勢を鮮明にした[13]。
10月22日、福田、大平に加えて、中堅派閥の中曽根派からは中曽根、番町政策研究所(三木派)からは河本敏夫が立候補を表明。中曽根と河本は次回以降の総裁選を見据えた顔見せの意味合いが強かったことから、福田と大平の一騎打ちの構図になった。
マスコミによる序盤の情勢報道では、いずれも福田優勢を伝えていた。10月10日の読売新聞は「福田過半数、中曽根急迫、大平振るわず」という世論調査記事を出した[14]。10月16日の毎日新聞は「中曽根21%、大平20%」という世論調査記事を出した[13]。10月21日の朝日新聞の世論調査記事も「1%差で中曽根2位、大平3位」[15]と、揃って中曽根の食い込みを伝えた。11月16日の毎日新聞は「人気は『福』『中』『大』『河』の順」という見出しを掲げた[16]。
しかし、この総裁選の流れを変えたのは、今回から新たに導入された、予備選挙であった。これは、一般党員・党友が先に投票を行い、上位2名が国会議員による本選へ進むというものであった。福田は、国会議員のみの投票や派閥の談合では田中派の支援を受ける大平が優位だが、今回は一般投票が込みなので自分が圧倒的に優位である、と確信していた。また、予備選挙制度が導入されたのは、総裁選挙のたびに派閥間の買収合戦が展開され、金銭が飛び交う状況を変えるためであることから、一般の全党員が参加する選挙ともなれば、買収工作は難しくなると考えた[17]。そして、本選での逆転を狙うであろう大平への牽制として、「1回目の投票で100点差がついたら、2位の候補は本選を辞退すべきだ」と念を押していた。
しかし、実際には逆に、各陣営は猛烈な党員獲得競争に走り、選挙戦は苛烈さを増した。中でも、大平陣営では田中派が大規模な運動を展開。選挙期間中、田中派の独自の調査では「僅差で大平1位、福田2位」とはじき出していたため、大平が出馬辞退しないよう激励[18]。そして、本来党員名簿は自民党本部がコンピューターで管理して持ち出し禁止であったが、田中派の後継候補であった竹下登が事前に手を回していた。2年前に予備選が導入されて以降、竹下は党全国組織委員長として予備選システムの説明の名目で全国210カ所の地方組織を周り、その際、現地の支部の名簿をコピーすることで、党員名簿の入手に成功していたのであった。これを基に、田中の秘書である早坂茂三が、全国の知事、市町村長、正副議長、党三役、農協、漁協、商工団体、地域の企業のトップらの名前、住所、電話番号が書き込まれた、幅1メートル50センチ、長さ20メートルに及ぶ名簿を作成[19]。11月1日、予備選挙の開始と同時に、この名簿を基に電話をかけ続けた[19]。また、都下では後藤田正晴が責任者となって、秘書2人が一組になって、党員宅をシラミつぶしに戸別訪問した[19][20]。
選挙期間中、新聞各紙は福田を僅差で大平が追うという見方を強めた。その中で田中角栄は50-60点差で大平が勝利するだろうと述べたが、この時点ではかなり強気な読みであると受け取られた。各メディアも、本選において大平が逆転しうるか、がもっぱらの見方であった。
11月26日、予備選の郵便投票が開票[21]27日、開票結果が発表され、大平が福田に110点差をつけて1位通過した。劣勢とみられた東京での逆転劇が大平の勝利につながった。青嵐会などは「最後まで戦うべきだ」と進言したが、福田は「総理大臣が自分で言ったことを覆すわけにはいかない」として本選を降り、大平が当選した[22]。自民党史上、現職が総裁選に敗れたのは、福田赳夫ただ一人である[注釈 2]。
勝利した大平は、「一瞬が意味のある時もあるが、10年が何の意味も持たないこともある。歴史とはまことに奇妙なものだ」という言葉を残している。一方福田は、「天の声もたまには変な声がある」と語った[23]。
選挙結果
| 候補者 | 得票数 (予備選) | 得票数 (本選) |
|---|---|---|
| 大平正芳 | 748点 | 当選 |
| 福田赳夫 | 638点 | 辞退 |
| 中曽根康弘 | 93点 | - |
| 河本敏夫 | 46点 | - |
- 予備選の集計方法
- 有権者は1月末までに入党・入会を申請し[24]8月31日に確定した党員103万9912人と党友18万1160人[25]。
- 11月1日告示。郵便投票であり、開票日の11月26日以前に到着した票が集計される。当時の郵便事情からすると、20日までに投函する必要があるとされた[26]。
- 党員・党友は1人1票で、1000票を1点として都道府県別に点数を割り振る。
- 各県別に票を集計し、それぞれの県における上位2候補に対して、得票数に比例して点数を割り振る。
- 全国で点を集計し、上位2候補が本選に進む。
- 県内得票3位以下の候補はその県での点数がゼロとなる規定であったことから、中曽根・河本のいずれかが2位に入る県では、福田・大平で下位になった候補はゼロ点になり、互いの差が大きくなる仕組みであった。具体的には、北海道(59点)と東京都(102点)では福田1位、中曽根2位であったことから大平が中曽根を上回るか、また、兵庫県と長崎県は河本の首位が固かったことからどちらが2位になるか、が焦点となっていた[27]。
- 本選挙
- 12月1日に両院議員の投票で次期総裁を決定すると予定されていた[28]。福田が辞退したことで大平が無投票当選。