大公の聖母

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製作年1505年-1506年頃
種類油彩、板
寸法84.4 cm × 55.9 cm (33.2 in × 22.0 in)
『大公の聖母』
イタリア語: La Madonna del Granduca
英語: The Madonna of the Grand Duke
作者ラファエロ・サンツィオ
製作年1505年-1506年頃
種類油彩、板
寸法84.4 cm × 55.9 cm (33.2 in × 22.0 in)
所蔵パラティーナ美術館フィレンツェ

大公の聖母』(: La Madonna del Granduca, : The Madonna of the Grand Duke)として知られる『聖母子』(: La Madonna col Bambino, : The Madonna and Child)は、イタリア盛期ルネサンスの巨匠ラファエロ・サンツィオ1505年から1506年に制作した絵画である。油彩。『大公の聖母』という通称は所有者であるトスカーナ大公フェルディナンド3世が特に愛した絵画であったことに由来する。フィレンツェ時代を代表する作品で、ラファエロが描いた聖母像の中でも特に有名な作品の1つである。一見すると、暗闇の中に浮かび上がるかのように描かれた聖母マリアと幼いイエス・キリストが印象的な作品だが、黒い背景は後世の加筆によるものであることが判明している。加筆は2層にわたっており、これを除去してかつての姿を修復することは不可能とされている[1]。現在はフィレンツェピッティ宮殿パラティーナ美術館に所蔵されている[1][2][3][4][5]。またウフィツィ美術館には本作品の習作素描が所蔵されている[3][6][7]

ウフィツィ美術館に所蔵されている『大公の聖母』の習作素描[6]
本作品同様にレオナルド・ダ・ヴィンチの影響が見られる『カーネーションの聖母』。ロンドンナショナル・ギャラリー所蔵[8]
2016年プーシキン美術館でのラファエロ展で展示された『大公の聖母』。

ラファエロが描いたのは、赤と青の衣装を身にまとった聖母マリアが幼児のキリストを抱きかかえるという、典型的な聖母子像である。聖母マリアは物憂げな様子で視線を下に向けており、その身振りは鑑賞者に我が子の顔を見つめるよう促すべく、キリストを差し出しているように見える。幼いキリストの姿は愛らしくありながらもその面持ちは真剣さを漂わせている。彼らの抑制された身振りは簡素であるが、それにもかかわらず、作品全体が母と子を結ぶ深い愛情と、いずれ訪れるであろう受難への痛ましい予感を伝えている[3]

本作品が制作されたのは、若きラファエロがレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロ・ブオナローティの評判を聞きつけてフィレンツェにやって来たばかりの時期に相当する。当時のフィレンツェではレオナルドや、ミケランジェロ、フラ・バルトロメオといった巨匠たちが傑作を生み出しており、成熟期を迎えていたラファエロの師のピエトロ・ペルジーノは幼い洗礼者ヨハネや聖ヨセフをともなう聖母子を繰り返し描いていた。さらに15世紀のドナテッロロレンツォ・ギベルティルカ・デッラ・ロッビアといった巨匠たちは、教会や礼拝堂はもとより裕福な顧客たちの信仰的需要に応えるため、テラコッタ漆喰大理石など、様々な素材で数多くの聖母子像を制作していた。ラファエロはこうした芸術家たちから技法を学んだだけでなく、フィレンツェの豊かな宗教的図像から多くのインスピレーションを得ることができたと考えられている[3]

様式は依然としてペルジーノに依拠しているが、レオナルドから受けた強い影響をスフマートの使用によって確認することができる。ラファエロはこの技法で絵画に優雅なバランスと調和を与えている。さらにレオナルドを思わせるキアロスクーロを用いてより立体的に描き、作品に記念碑性を与えつつ、愛情表現への関心を高めている[3]

来歴

ラファエロが本作品を制作した経緯については明らかではない。本作品に関する最古の記録は、約300年後の1799年12月23日に、ウフィツィ美術館の監督官トンマーゾ・プッチーニがウィーンに亡命中のフェルディナンド3世に宛てたメモである[1]。当時のトスカーナはナポレオンの侵攻に際してフランス軍の略奪にさらされており、プッチーニはその危険から美術品を守らなければならなかった。そんなとき、トスカーナの貧しい未亡人の家から、保存状態の良いラファエロの聖母子を描いた絵画が発見され[9]、ある画商に売りに出されたという情報が入ったのである。メモはそのことを大公に知らせるためのものであり、知らせを受けた大公はプッチーニに絵画を購入するよう指示した[1]。こうして世に出たのが本作品『大公の聖母』である。大公は絵画を非常に気に入って大切に扱い、1800年に他のコレクションとともにパレルモに移した後は、亡命先であるヴュルツブルクまで絵画を運んだ。そして1814年のウィーン議定書によってトスカーナ大公に復位すると、翌年絵画をフィレンツェに持ち帰った。しかし大公は生涯にわたって絵画を自身の寝室に飾ったため、パラティーナ美術館の展示からは除外され、大公がフィレンツェを留守にする夏の間だけ特別に公開された。本作品がパラティーナ美術館で広く展示されるようになったのは大公の死去から4年が経った1828年であり、絵画はすぐにラファエロの最も人気のある聖母画の1つとなった[9]。その人気は模写や版画の多さによって証明されている[1]

作品の真筆性

絵画の真筆性については、発見された当初からラファエロの作品であることは疑われていないが、黒地の背景部分はラファエロの他の聖母子を描いた絵画には見ることのできない極めて異例な表現であるため、背景部分がラファエロの真筆であるかどうか論争が続けられた。真筆を疑う少数の研究者は背景の下にラファエロが描いた本来の背景が隠されていると考えた[1]。その一方で真筆と考える研究者は、幼いキリストの髪や光輪など、部分的に黒地の背景の上に塗られた箇所があることを真筆の重要な根拠とした[10]

科学的調査

1984年、ピッティ宮殿で催されたラファエロ展に際して行われた科学的調査は、『大公の聖母』についていくつかの重要な事実を明らかにした。1つは赤外線リフレクトグラフィーによる調査で、ラファエロが本作品を描くにあたってスポルヴェロ技法を使用していることが判明した。これは下絵を転写する際に用いる技法で、具体的にはカートゥーン(原寸大下絵)の線に沿って小さな穴をあけていき、そこから顔料を付着させることで転写するというもので、ラファエロの他の作品においても確認されている。もう一つはX線撮影による調査で、その結果、黒地の背景の下に室内空間の風景が隠されていることが判明し、これによって黒地の下にラファエロの真筆による風景が隠れているとする説が証明された形となった。しかしこの発見に対して、ラファエロが構想を変更し、黒い背景で描き直したとする説も唱えられたが、現在では黒地の背景部分をラファエロの加筆に帰す見解は否定されている。というのは、最下層の背景部分に剥離した個所があり、そこにも黒色顔料が塗りこまれていることが分かったからである。この事実は背景の加筆が、少なくとも、もともとの絵画の顔料が剥離するほどに時間が経過した後になされたものであることを示している。また黒地の上に塗られた部分については、拡大撮影した結果、ラファエロのものとは異なる闊達なタッチが確認されたほか、蛍光X線分析によって当該箇所の顔料の成分がラファエロの真筆部分と異なっていることも判明した[10]

以上の調査から、おそらく17世紀から18世紀の間に、背景部分の保存状態の悪さを覆い隠すために黒色顔料で背景が塗り直されたが、その際に部分的に聖母マリアとキリストの輪郭部分が隠れてしまったため、黒地の上に加筆がなされたと考えられている[10]

ギャラリー

関連画像

脚注

参考文献

外部リンク

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