大河原良雄
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群馬県安中市中宿に生まれる[2][1]。埼玉県立浦和中学校(現・埼玉県立浦和高等学校)[2]、台中州立台中第二中学校[要出典]、第一高等学校[2]を経て、1942年(昭和17年)東京帝国大学法学部卒業[2]。
1942年(昭和17年)に外務省入省[1]。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校[3]。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業[3]。第8根拠地隊司令部付兼ラバウル民政部庶務主任となる[3]。現地人宣撫、現地人労働力確保を担当[3]。1945年(昭和20年)2月、南東方面艦隊司令部に転じ艦隊生産本部生産主任となり、ラバウル海軍部隊の食糧自給体制の構築のため、主要食料品の自給計画作成、隊別目標の設定、生産指導に従事[3]。1944年(昭和19年)5月、主計大尉に進み終戦を迎えた[3]。オーストラリア軍キャンプに収容された朝鮮・台湾出身者集団との連絡将校を務め、1946年(昭和21年)5月から戦犯弁護団連絡将校となり、1947年(昭和22年)4月に解員(復員)した[3]。
1947年(昭和22年)外務省調査局第二課に入る[2]。北米局外務参事官[2]、アメリカ局長[2]、1974年(昭和49年)外務大臣官房長[1]を歴任。1976年(昭和51年)駐オーストラリア大使[1]。1980年(昭和55年)1月駐アメリカ合衆国大使に就任[2][1]。1985年(昭和60年)まで務めた。事務次官を経ずに駐米大使に就任するのは比較的異例だったが[4]、大河原自身はほぼ一貫して日米外交に携わってきた人物である。同県出身の中曽根康弘の盟友としても知られ、いわゆる「ロン・ヤス」時代の日米関係を支えた。
1985年(昭和60年)外務省を退官[1]。1991年(平成3年)、勲一等瑞宝章受章[5]。
ほかに、公益財団法人YFU日本国際交流財団理事長、日米協会会長、経団連特別顧問、日米交流150年委員会委員長、本田技研工業取締役、パシフィックフォーラム CSIS理事などを歴任した。赤門学友会では葛西敬之、明石康、牛尾治朗、有馬朗人、米倉弘昌らとともに顧問を務めていた[6]。郷土愛に篤く、2012年度には安中市にふるさと納税をした[7]。安中市功労者・善行者表彰を受けたこともある[8]。
著書・論文
- 大河原良雄『孤立化を避けるために : 大使の直言』世界の動き社、1985年9月。
- 大河原良雄『日米大転換のとき』講談社、1987年12月。ISBN 9784061927865。
- 大河原良雄『日本の品格―世界から求められるもの』光文社、1990年9月。ISBN 9784334051778。
- 大河原良雄『オーラルヒストリー 日米外交』ジャパンタイムズ、2006年1月。ISBN 9784789012164。