牛尾治朗
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兵庫県姫路市に牛尾家2代目牛尾健治・美津子の次男として生まれる。
祖父・牛尾梅吉は姫路商工会議所の2代目会頭を務め、播磨の振興に尽力した[4]。父・健治は、姫路銀行頭取を務める傍ら中国合同電気→山陽配電(現在は分割されて関西電力・中国電力)を中心に電力・電機事業を手がけた。現在のウシオ電機も、前身は中国合同電気の電球製造部門が独立した姫路電球であり、同社から産業用特殊光源の製造部門が独立したのが現在のウシオ電機に至っている。
旧制兵庫県立第三神戸中学校、旧制第三高等学校を経て[5]、1953年に東京大学法学部政治学科を卒業し東京銀行に入行[1]。カリフォルニア大学バークレー校大学院留学後に家業を受け継ぎ、1964年ウシオ電機を設立。28歳で経済同友会に入会し、中堅企業の経営者ながら早くから財界人として意欲的に発言してきた。1969年1月には日本青年会議所会頭に就任し(同年12月まで在任)、「財界の老害」を批判した。「21世紀は市場経済の時代。民間が自立した社会にする必要がある」として規制緩和や株主尊重の路線を打ち出した。
1995年4月に経済同友会代表幹事に就任、1999年4月からは特別顧問(終身幹事)に就いている。1996年2月には日本ベンチャーキャピタル株式会社を設立し、取締役会長に就任(2002年6月に名誉会長に退く)。2001年には経済財政諮問会議議員、日本郵政・社外取締役に就任。また、旧・第二電電がケイディディ(KDD)・日本移動通信(IDO)と合併して出来た旧・ディーディーアイ(現・KDDI)が成立する前後に会長を務めている。
政治
1975年東京都知事選挙では石原慎太郎の参謀四人衆の一人(他は浅利慶太、塩路一郎、飯島清)として選挙運動を指揮した[6]。
1979年東京都知事選挙で牛尾は新自由クラブから東京都知事候補に推され、首相・自由民主党総裁の大平正芳からも打診があった[7]が、結局自民党は公明党の推す鈴木俊一の推薦を決めたため出馬しなかった[8][9]。
1985年首相中曽根康弘の意向により民間人特別委員10人の1人として政府税制調査会に入った[10][11]。
牛尾は安倍晋太郎と親交があり、安倍の後援会のひとつ『総晋会』の会長を務めた[12]。第1次安倍内閣では、閣議決定で開塾された沖縄新世代経営者塾に堺屋太一などとともに顧問という肩書きで就任し、若手経営者の指導にあたった。
民間人だが、閣僚人事について安倍晋三の相談を受けるなど、政治への影響力も強い[要出典]。官僚人事についても、安倍に今井尚哉の登用を勧めたとされる[13]。
年譜
- 1931年2月:兵庫県姫路市に生まれる
- 1953年3月:東京大学法学部政治学科卒業
- 1953年4月:東京銀行入行
- 1956年2月:カリフォルニア大学バークレー校政治学大学院留学
- 1964年3月:ウシオ電機株式会社設立 代表取締役社長就任
- 1969年1月:日本青年会議所会頭就任(~12月)
- 1979年4月:ウシオ電機株式会社 代表取締役会長就任
- 1981年4月:第二次臨時行政調査会 専門委員(~1983年3月)
- 1984年6月:第二電電株式会社(DDI)取締役就任
- 1987年4月:国際大学理事長就任(~1988年12月)
- 1988年12月:江副浩正よりリクルートコスモス社の未公開株を譲渡されていたことが分かり(リクルート事件)、社団法人経済同友会 副代表幹事ほか公職を辞任[14]
- 1994年3月:財団法人ウシオ育英文化財団理事長
- 1995年4月:社団法人経済同友会 代表幹事就任(~1999年4月)
- 1996年2月:日本ベンチャーキャピタル株式会社設立 取締役会長就任(~2002年6月)
- 1999年5月:社団法人経済同友会 特別顧問就任
- 1999年6月:株式会社ホテルオークラ 取締役就任
- 2000年4月:第二電電株式会社 代表取締役会長就任
- 2000年10月:株式会社ディーディーアイ 代表取締役会長就任(~2003年6月)
- 2001年1月:内閣府 経済財政諮問会議 議員就任(~2006年9月)
- 2002年5月:技術研究組合極端紫外線露光システム技術開発機構理事長
- 2003年6月:財団法人 社会経済生産性本部(現・公益財団法人日本生産性本部)会長就任(~2014年6月、同月より名誉会長)、KDDI株式会社取締役就任(~2006年6月)
- 2020年5月:ウシオ電機株式会社 取締役相談役就任
- 2020年9月:ウシオ電機株式会社 名誉相談役
- 2023年6月:誤嚥性肺炎のため死去した[15]。92歳没。ウシオ電機が同月21日明らかにした。
その他役職
人物
趣味はゴルフ[1]。好物は麺類、幅広麺を好む。