大竹洋平

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愛称 よーへい
カタカナ オオタケ ヨウヘイ
ラテン文字 OTAKE Yohei
国籍 日本の旗 日本
大竹 洋平
名前
愛称 よーへい
カタカナ オオタケ ヨウヘイ
ラテン文字 OTAKE Yohei
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1989-05-02) 1989年5月2日(36歳)
出身地 埼玉県八潮市
身長 166cm
体重 63kg
選手情報
ポジション MF[1] / FW (ST)
利き足 左足[1]
ユース
1996-2001 日本の旗 八潮中央SSS
2002-2004 日本の旗 FC東京U-15深川[注 1]
2005-2007 日本の旗 FC東京U-18
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2008-2013 日本の旗 FC東京 64 (7)
2011 日本の旗 セレッソ大阪 5 (1)
2013-2016 日本の旗 湘南ベルマーレ 47 (2)
2017-2018 日本の旗 ファジアーノ岡山 46 (4)
2019-2023 日本の旗 V・ファーレン長崎 97 (9)
2024-2025 シンガポールの旗 アルビレックス新潟・S 26 (4)
通算 262 (24)
1. 国内リーグ戦に限る。2025年8月20日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

大竹 洋平(おおたけ ようへい、1989年5月2日 - )は、埼玉県八潮市出身の[2][3]プロサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー(MF)及びフォワード (FW)

初期

3歳でサッカーを始める[4]。小学生の頃から中村俊輔のプレーを研究し[2][5]、同選手に似たプレースタイルやキックフォームを見せるようになる[注 2]。関東トレセンに選出された際にFC東京から評価され[2][注 3]2002年から同クラブの下部組織に入った。当時は全てのPKを任されていた。2007年のJリーグユース選手権大会では5得点を挙げ、攻撃の起点としてチームの優勝に貢献した。同期には椋原健太廣永遼太郎丸山祐市田端信成岡田翔平田中奏一宮阪政樹井澤惇加藤淳也など。

FC東京

2008年、椋原、廣永と共にトップチームに昇格[1]。積極的に好機を演出してアピールに成功し[7]、同年3月8日の開幕戦神戸戦(自身の高校卒業式当日)でプロデビュー。4月19日のJ1第7節川崎戦においてプロ初得点をループシュートで決めると[5][3]同月21日、U-23日本代表候補に追加招集され[8][3]反町康治オリンピック代表監督から「ゲームの流れを変えられる選手。たぐいまれな個性がある」と評される[9] など注目を集めた。以後、オフ・ザ・ボールの動きを試行錯誤し苦しんだものの[10]、J1第24節大宮戦でフリーキックでの得点を決めるなど、チーム3位タイの4得点を挙げ存在感を示した[注 4]

2009年、クラブ首脳陣からの厚い期待を受けて4年契約を締結し[12]、背番号もリオネル・メッシ[注 5]に因んで[14]「30」から「19」へ変更[注 6]。しかし同年は対戦相手に得意の左足が封じられると[4]城福浩監督からも「さらなる成長がないと、この壁は越えられない」[15] と厳しい評価を下され、出場機会が激減。得点も3月29日ナビスコカップ予選リーグ第2節・神戸戦での1得点にとどまった。また、この年からJリーグ選手協会(日本プロサッカー選手会)の副支部長を務めている[16]

2010年5月22日ナビスコカップ予選リーグ第3節新潟戦で14か月ぶりとなる得点を決める。相手GKのタイミングをずらしてのシュートに、城福監督から「指導者が指導できない発想で点を取ってくれた」[17] と称えられた。同年9月のJ1第24節からは城福に替わり大熊清監督が指揮を執ったが、怪我人の復帰に伴うメンバー再編や、FWのリカルジーニョが大竹と同じ攻撃的MFにポジションを変えたことなどから、大熊就任以降のリーグ戦での出場は3試合にとどまった[18]。しかし、控え組主体[19] で臨んだ天皇杯4回戦千葉戦では2得点の活躍[20]。「最後まで(フル出場しても)運動量が落ちなかった」「自分に自信をもってプレーできている」と成長を実感[19][21]。大熊は2011年の指揮を執るにあたって「狭いところでパスを出せる田邉草民と大竹洋平をホントに鍛え、戦力にしたい」と名指して期待を示した[22] が、田邉が出場機会を増やす一方で大竹は途中出場が続いた[23]

セレッソ大阪

2011年8月、攻撃的MF補強を急務としていた[24]セレッソ大阪期限付き移籍[25][26]レヴィー・クルピ監督からはキープ力や組み立て、シュート、ゴール前への飛び込みなどで高評価を受けており[27]、自身初出場となったAFCチャンピオンズリーグでは鮮やかな連携を見せたものの[28] 出場機会は乏しく、シーズン終了をもってFC東京へ復帰[29][30]

FC東京復帰

2012年も控えからのスタートとなったが、バイタルエリアで違いを作れる選手として[31]4月17日のACL北京国安戦で先発出場の機会を掴み、1得点を挙げる活躍を見せた[31]。主力として定着しつつあったが、同月末の練習中に負傷。後に左前十字靱帯及び左膝内側半月板の損傷と診断され[32] 戦線から離脱。2013年夏場にかけて復調しつつあった[33][34]

湘南ベルマーレ

2013年8月にリーグ戦ベンチ入りを果たし[35]、同月、中学生時に関東トレセンで指導を受けたチョウ・キジェ[36] が率いる湘南ベルマーレへ期限付き移籍[37][38]。高い技術を発揮して[39] 早々にチームにフィット[40]。相手の隙を突く巧みなパスや[41] プレースキックで決定機を演出し、攻撃を勢い付けた[42][43]。同年11月の練習試合中に右膝前十字靭帯を断裂し[44] 長期離脱を強いられた。2014年より湘南へ完全移籍[45][46]。同年8月、J2第27節栃木戦で復帰。2015年はシャドーの位置から攻撃の起点となり、味方の走力を活かした[47]。湘南に在籍した3年半の間に自身に足りなかったという走力と球際で戦う意識を向上させた[48]

ファジアーノ岡山

FC東京でも指導を受けた恩師[49]長澤徹監督から声がかかり[50]、2017年にファジアーノ岡山へ完全移籍[51][52]。チームでは希少な創造性を有する選手として[49] 得点に絡んだ。

V・ファーレン長崎

2018年12月、2019年シーズンよりV・ファーレン長崎に完全移籍で加入することが発表された[53]

アルビレックス新潟シンガポール

2023年12月13日、2024-25シーズンよりアルビレックス新潟シンガポールに完全移籍で加入することが発表された。

2024-2025シーズンでアルビレックス新潟シンガポールを契約満了となり、同シーズンをもって現役を引退した[54]

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2008FC東京30J12344000274
2009191306110201
20101426152255
2011J2111--111
C大阪7J151103192
2012FC東京1930001040
20130010-10
湘南4091-10101
20147J2130-10140
2015J11703000200
2016815000131
2017岡山10J2293-20313
2018171-00171
2019長崎203943020444
2020245--245
2021100-22122
2022180-30210
202360-0060
通算日本J1 92926211312914
日本J2 167143010218016
総通算 2592329221530930
国際大会個人成績
年度クラブ背番号出場得点
AFCACL
2011C大阪720
2012FC東京1911
通算AFC 31

その他の国際公式戦

代表歴

タイトル

脚注

関連項目

外部リンク

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