大谷鉱山 (京都府)
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大正の初期、伊丹の山本太一が経営する銅山を譲り受けタングステンの採鉱を開始する。1935年(昭和10年)、粟村鉱業所株式会社となる。1939年(昭和14年)日本で初めて浮遊選鉱(石鹸浮選)を採用。1945年(昭和22年)終戦に伴い一時操業を停止。1951年(昭和26年)選鉱場を大規模に再構築し操業を開始する。1971年(昭和46年)カドミ問題の対策として集中浄水装置を設置する。1975年(昭和50年)ごろには、化学精錬工場を設置し、低品位鉱、委託鉱などを処理、人工シーライトやパラタングステン酸アンモニウムを生産していた[1]。生産量は、1978年当時で月産3000t粗鉱を処理していた。そのほか山口県喜和田鉱山の粗鉱を陸送で受け入れ250tを処理していた。従業員はその当時で100人程度であった[1]。1983年(昭和58年)8月31日、会社破産法の適用により閉山した[2]。
閉山後
閉山後、特に観光化はなされていない[3]。未採掘の鉱脈は多数残存する[3]。行者山の山頂の西方約500mの位置に多種類の鉱物を産した繁恵坑のズリ捨て場があったが、2002年の調査では遺残鉱物の採取は困難であったとされる[3]。神前方面に流れる小川の砂礫からは錫石の結晶を認めたという報告もある[3]。坑口はその多くが崩壊して埋まったり、閉鎖されているが、一部の立坑は残されている(大谷鉱山中央坑(とこ投げ山登山口)など)[4][5]。2002年現在、行者山の花崗岩は鞍馬石石材の代用(丹波鞍馬)として採石が行われており、かつての鉱山事務所跡地には石材加工場が設置されている[3]。この行者山の花崗岩採石場からは、花崗岩に混じってグライゼン化した大量の白雲母をともなった石英脈がしばしば出現し、その中に直径数mm程度の灰重石や錫石が認められる[3]。鉱山跡地や鉱脈や石英脈の露頭については消滅が危惧されており、保存を訴える意見がある[3]。
地質
付近は底盤に花崗岩類があり、丹波層群Ⅰ型に分類される頁岩類、砂岩、チャートよりなる地層で覆われる。鉱床は丹波層群を貫いた白亜紀(Cretaceous period)の行者山花崗岩体に存在するスカルン鉱床である[1]。この岩体は、地質調査所の研究調査では化学組成では花崗閃緑岩にあたると記述されている。また岩体の地質年代はK-Ar年代で93.0±3.7Ma(million years ago)、Rb-Sr年代として98.9±4.2Maとされており、貫入時期は白亜紀中頃(Cenomanian頃)となる[3][6]。鉱脈は、この花崗岩の裂け目を満たす深成高温タングステン・錫・石英鉱脈で[3]、獨鈷抛(とこなげ)山立坑関連の鉱区で主要なものが10数本、神前鉱区で4本とされる[1]。走向は、N20°E、N40°Eで優勢なものは延長1kmに達する。脈幅1.5m - 5.5m、傾斜は70度以上とされている[1]。主要鉱石は、灰重石 (Scheelite) CaWO4であり、鉄重石 (Ferberite) FeWO4はほぼ産しない[1]。灰重石の他には、黄銅鉱、錫石、磁硫鉄鉱、硫砒鉄鉱、閃亜鉛鉱、黄鉄鉱、黄錫鉱、輝蒼鉛鉱、キューバ鉱、マッキーノ鉱、方鉛鉱などが認められる[3]。脈石鉱物として白雲母、蛍石、電気石、方解石、石英などがあり、2002年時点で66種類の鉱物が確認されている[3]。大谷鉱山から産出される灰重石には黄褐色のものと黄白色のものがあり[3]、またモリブデンの含有量が極めて微量である事が特徴であった[1][注 1]。錫石は大きな結晶が産することが特徴である[3]。