天王寺村銭座 From Wikipedia, the free encyclopedia 高津新地銭座(たかつしんち ぜにざ)[1]は、江戸時代の日本の、摂津国東成郡天王寺村等、幕藩体制下の御料摂州天王寺村等(1925年〈大正14年〉時の大阪府東成郡天王寺村等、現在の大阪府大阪市中央区日本橋二丁目等)で営まれていた、銭座(江戸幕府から銅貨の鋳造・発行を任された機関[2])である。高津銭座[3]、天王寺村銭座(てんのうじむら ぜにざ)、天王寺村鋳銭所(てんのうじむらじゅせんじょ、てんのうじむらちゅうせんじょ)などともいう。 跡地は、黒門市場に最寄りの、黒門公園内の東端に、天王寺村鋳銭所跡の名で所在する[* 1]。 高津で鋳造された寛永通宝元字銭。 江戸時代前期の元文5年(1740年)、大坂の銀座年寄(銀鋳造所の幹部)であった商人の徳倉長右衛門(とくくら ちょうえもん)と平野六郎兵衛(ひらの ろくろべえ)が、江戸幕府の許可を得て、高津入堀川の堀止に近いこの地に設置し[4][5][6]、明くる元文6年(1741年)から操業を始めた[7]。敷地は3町6反3畝(約10,890坪、約36,000平方メートル)もあり[5]、周囲は塀と堀で厳重に囲われていた[5]。多い時には年間20万貫(約2億枚)の元字銭(げんのじせん)を造ったという[4][5][6]。元字銭というのは、もっぱらこの銭座で造られる寛永通宝一文銭のことで[3]、元字寛永ともいう[3]。しかし、銭座支配人の不正などがあったため、営業がうまく行かなくなり、わずか5年後の延享2年(1745年)に操業は停止された[4]。 数年放置された後、難波入堀川と難波御蔵(西成郡難波村にあった御蔵〈江戸幕府の米蔵。御米蔵)[8][9]〉)の先例に倣って、道頓堀から難波入堀川を通じて運ばれてくる米を蓄えておくための天王寺御蔵(てんのうじおくら)が、宝暦2年(1752年)に設けられた[4][5]。またの名を高津新地御蔵(こうづしんちおくら)という[4][5]。ところが当地域は多湿で米の痛みが早かった。そのため、天王寺御蔵は寛政3年(1791年)に廃止され、代わって難波御蔵に新御蔵が増築された[5]。跡地は民間地となり、町屋が立ち並ぶようになった[5]。 石碑は2004年(平成16年)3月に大阪市が建立した[5]。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 天王寺村鋳銭所跡(地図 - Google マップ) ※該当施設は赤色でスポット表示される。跡地は公園に含まれるので同じ緑色で地図表示されるが、跡地の区域は点線で囲い表示される。 出典 ↑ 森島克一 (2018年). “「座」・金融都市大坂探訪” (PDF). なにわなんでも大阪検定(公式ウェブサイト). 大阪商工会議所. 2019年7月24日閲覧。 ↑ “銭座”. コトバンク. 2019年7月24日閲覧。 1 2 3 小学館『精選版 日本国語大辞典』. “元字銭”. コトバンク. 2019年7月24日閲覧。 1 2 3 4 5 “天王寺村鋳銭所跡”. 大阪中心(公式ウェブサイト). 大阪市中央区. 2019年7月24日閲覧。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 “天王寺村鋳銭所跡”. 徒然なるままに大阪散歩(個人ウェブサイト). 個人 (2014年5月5日). 2019年7月24日閲覧。 1 2 小葉田(1958), p221-222. ↑ 出典は石碑の銘文。 ↑ 小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』. “御蔵”. コトバンク. 2019年7月24日閲覧。 ↑ “御倉・御蔵”. コトバンク. 2019年7月24日閲覧。 参考文献 小葉田淳『日本の貨幣』至文堂、1958年。 表話編歴江戸時代の貨幣大判 慶長大判 元禄大判 享保大判 天保大判 万延大判 小判・一分判 慶長小判 元禄小判 宝永小判 正徳小判 享保小判 元文小判 文政小判 天保小判 安政小判 万延小判 定位貨幣 五両判 二分判 二朱判 一朱判 五匁銀 南鐐二朱銀 一分銀 一朱銀 | 二朱銀 改三分定銀 丁銀・豆板銀 慶長丁銀 元禄丁銀 二ツ宝丁銀 永字丁銀 三ツ宝丁銀 四ツ宝丁銀 正徳・享保丁銀 元文丁銀 文政丁銀 天保丁銀 安政丁銀 | 人参代往古銀 正字丁銀 銭貨 慶長通寳 元和通寳 寛永通寳 寳永通寳 寛永通寳當四 天保通寳 文久永寳 | 長崎貿易銭 | 平安通寳 地方貨幣・札 領国貨幣 地方貨幣 | 羽書 藩札 旗本札 為替手形 米切手 貨幣単位 両 匁 文 | 分(ぶ) - 分(ふん) 貫 - 貫文 朱 永 関連項目 大判座 金座 銀座 銭座 銅座 包金銀 勘定所 両替屋 御定相場 三貨制度 金遣 銀遣 銀目 匁銭 貨幣改鋳 幕末の通貨問題 日本の貨幣史 カテゴリ Related Articles