土岐市史によれば、1233年(天福元年)に、尾張国中島郡の妙興寺の末寺として建立され、寺号を天福寺としたと記されている。
しかし『一宮市史』の「妙興寺文書」によると、尾張国中島郡の天福寺のことであって、美濃国土岐郡の天福寺のことではないことが判明した。
初代の天福寺の寺号は正覺山で、現在地から南東へ1キロメートルの上肥田に中世に存在していた。
南北朝時代中期に至って、天福寺は肥田氏によって整備拡充された。
1365年(貞治4年)、夢窓疎石の法嗣の先覺周恬を勧請して開山した[2]。
先覺周恬は、天福寺を勧請開山した後に、土岐郡山野内村の明白庵に閑居した[3]。しかし明白庵から天福寺へ招かれたとも考えられる[4]。
先覺周恬は境内に塔頭の藏密庵を建立したり、天福寺の六境を定めたりして基礎を創った。
その後、先覺周恬は京都に證明寺(廃寺)を開創し、応安6年(1373年)1月20日に遷化した。
永和元年(1375年)12月5日、肥田氏(證山認公居士)の招きで、天龍寺の夢窓疎石の法嗣の空谷明應(佛日常光國師)が入寺し、四年後に退寺した[5]。
応永4年(1397年)11月20日、可児郡瀬田の東栄寺で天福寺の和尚が開眼供養を行ったという記録がある[6]。
永享8年(1436年)12月11日、足利義教が、天福寺の澄初首座を含む全国の数箇寺の住持に対して紫衣着用許可の公文に御判した。このことは天福寺の住持は将軍に御目見ができたということである。
長禄2年(1458年)8月7日、土岐氏は室町幕府に対して天福寺を十刹にするように申請し、翌年9月20日に列せられた[7]。
この時の住持は文仲西堂であったが、期を満たずして退山したが、天福寺はこの時より官寺となり諸山の上に位し、文仲西堂を住持に任じて紫衣着用の勅許を与え、同年11月10日、足利義政が、承勲西堂を天福寺の住持とすることを承認し公文に御判した。
長禄4年(1460年)8月5日、足利義政は、月航洪運を天福寺の住持とすることを承認し公文に御判した。
寛正4年(1463年)11月14日、足利義政は、景宗西堂を天福寺の住持とすることを承認し公文に御判した。
永禄8年(1565年)、武田信玄の重臣であった秋山虎繁と野村長門守が土岐郡に侵攻し、神篦城付近で織田方と両軍が衝突した(高野口の戦い)。
秋山は配下の仁木(山中)藤九郎なる者に150騎を授けて土岐郡の寺社を悉く焼討した[8]。この時に天福寺・定林寺・明白寺・光善寺・酒波神社が焼討されて天福寺は廃寺となった。
その後、1593年(文禄2年)に観音堂のみが再建されて、元禄年間には土岐郡三十三所巡礼の二番札所となった。
1621年(元和7年)、が、旧寺地から北西へ1キロメートルほどの中肥田に心田全以が天福寺を勧進した。
1624年(寛永元年)加茂郡の大仙寺から愚堂東寔(大圓寶鑑)を勧請して落慶法要を営み、心田全以が住持となった。その後、庫裏・鎮守・十王堂が創建された。
愚堂東寔は多忙であったため、泰翁了倹が来て、7年間住持を務めた。
1659年(万治2年)、泰翁了倹が妙心寺に出世すると月峰徳圓が住持となり、揖斐郡の瑠璃光寺と土岐郡一日市場村の大通寺の住持を兼務した。
万治4年(1661年)1月12日、心田全以が示寂した。
寛文元年(1661年)6月1日、寺鐘が鋳造された。鐘を寄進した者は、徳林宗壽庵主と通岩妙圓禅定尼である[9]。
1714年(正徳4年)、恵那郡大川村の林昌寺は蒙山祖佛が取り立てた寺で、天福寺の末寺となっていたが、村役が、これを拒み妙心寺の直末となったものの難しいことが多く、天福寺の末寺に戻るように申し出た。
1739年(元文4年)、土岐郡釜戸村論栃の中嶋六兵衛は、天福寺から観音像1躯を迎えて論栃の観音堂に祀った。
宝暦3年(1753年)2月、中肥田村の同行9人によって天福寺墓地の入口に宝篋印塔形式の三界萬霊塔が建てられた。
天明5年(1785年)3月、本堂の前に大型の常夜灯を建てたが、石工は「泉州箱造村石工 市保庄七 藤原政榮」である。
享和2年(1802年)7月7日には、中肥田と上肥田の檀信徒によって墓地の入口に常夜灯が設置されている。
1879年(明治12年)、大仙寺の末寺から離れて妙心寺の直末となった。
1881年(明治14年)土岐郡大湫村の宗昌寺が離末した。
1901年(明治44年)、本堂が落成し、虎渓山永保寺塔頭の五峰庵から無底老師を勧請して落慶法要を営んだ。
1921年(大正10年)、中肥田字堤下の庚申堂を天福寺の境内へ移築した。
1975年(昭和50年)に宗教法人となった。
1981年(昭和56年)、妙心寺派の準別格地となった。
1999年(平成11年)、本堂を竣工した[10]。