上杉房顕 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 室町時代中期生誕 永享7年(1435年)死没 寛正7年2月12日(1466年2月26日)改名 龍春(幼名)→房顕 凡例上杉 房顕時代 室町時代中期生誕 永享7年(1435年)死没 寛正7年2月12日(1466年2月26日)改名 龍春(幼名)→房顕別名 通称:八郎戒名 大光院清岳道純官位 兵部少輔幕府 室町幕府 関東管領主君 足利義政氏族 山内上杉氏父母 父:上杉憲実兄弟 憲忠、房顕、周清[注釈 1]、法興、周泰子 宇都宮正綱継室養子:顕定(上杉房定次男)テンプレートを表示 上杉 房顕(うえすぎ ふさあき)は、室町時代中期の武将・守護大名。関東管領。山内上杉氏10代当主。 永享7年(1435年)、上杉憲実の次男として誕生。永享の乱と結城合戦に勝利した父・憲実は房顕以外の子供を全て出家させた。房顕はしばらく従兄で越後国守護・上杉房朝の下に留め置かれたが文安元年(1444年)に父から越後と丹波国の所領を与えられ、上洛して8代将軍・足利義政の近臣として仕えた[注釈 2]。 享徳3年12月27日(1455年1月15日)、兄・憲忠が5代鎌倉公方・足利成氏によって暗殺されると、その弟に当たるという経緯などから享徳4年(1455年)3月に新たな関東管領に任命され、成氏征討軍の大将として関東へ下向して同年4月頃に上野国平井城へ入った(享徳の乱)。 それ以降は鎌倉から古河へと拠点を変えた成氏と何度も交戦したが、長禄3年(1459年)には武蔵国での太田庄の戦いで成氏軍の前に大敗を喫した。寛正4年(1463年)には、房顕の右腕であった山内上杉氏の家宰・長尾景仲が病没し、房顕は関東管領からの辞意を表明したが、幕府に拒絶された。寛正7年(1466年)、五十子にて陣没した。享年32。関東管領は従甥の顕定が継いだ。 房顕の度重なる敗退は、関東管領家の衰退にもつながったのである。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 上杉憲房の父。 ↑ この時代の関東管領は鎌倉公方から与えられた官途名を称していたが、京都で成長した房顕は正式な任官を受けており、享徳3年12月29日付の後花園天皇による兵部少輔任官の口宣案(『上杉家文書』)が伝えられている[1]。 出典 ↑ 木下聡「山内上杉氏における官途と関東管領職の問題」『日本歴史』第685号、2005年。 /所収:黒田基樹 編『山内上杉氏』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第一二巻〉、2014年。ISBN 978-4-86403-108-0。 関連項目 五十子陣 足利庄 長尾景人 表話編歴山内上杉氏当主山内上杉氏 重房 - 頼重 - 憲房 - 憲顕 - 憲方 - 憲定 - 憲基 - 憲実 - (清方) - 憲忠 - 房顕 - 顕定 - 顕実 - 憲房 - 憲寛 - 憲政 - 輝虎(謙信) - ※景虎 - 米沢上杉家 景勝 - 定勝 - 綱勝 - 綱憲 - 吉憲 - 宗憲 - 宗房 - 重定 - 治憲 - 治広 - 斉定 - 斉憲 - 茂憲 - 憲章 - 隆憲 - 邦憲 - 分家・支流 深谷上杉氏 憲英 - 憲光 - 憲信 - 房憲 - 憲清 - 憲賢 - 憲盛 - 氏憲 - 憲俊 - 憲国 - 憲景 - 新田(麻布)上杉家 勝周 - 勝承 - 勝定 - 勝義 - 勝道 - 勝賢 - 勝憲 - 勝昭 - 孝久 - ※御館の乱で景勝と争い、乱後の1580年には景勝に統一 表話編歴関東管領(1455年 - 1466年)鎌倉府古河府 斯波家長1336-1337 上杉憲顕1338 高師冬1339-1344 上杉憲顕1340-1351 高重茂1344-1349 高師冬1350-1351 畠山国清1353-1361 高師有1362-1363 上杉憲顕1366-1368 上杉能憲1368-1378 上杉朝房1368-1370 上杉憲春1377-1379 上杉憲方1379-1392 上杉憲孝1392-1394 上杉朝宗1395-1405 上杉憲定1405-1411 上杉氏憲1411-1415 上杉憲基1415-1418 上杉憲実1419-1439 上杉憲忠1447-1454 上杉房顕1455-1466 上杉顕定1466-1510 上杉顕実1510-1515 上杉憲房1515-1525 上杉憲寛1525-1531 上杉憲政1531-1561 上杉輝虎(謙信)1561-1578 カテゴリ Related Articles