性差の神経科学
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性差の神経科学(英: Neuroscience of sex differences)とは、男性脳と女性脳とを区別する特徴を研究する学問である。心理学的性差は通常、生涯に亘る脳の発達において、遺伝子、ホルモン、社会的学習が相互に作用した結果であるとされており、神経科学的性差の範囲に収まらない。

リーズ・エリオットが主導した2021年のメタ分析研究によると、脳の構造や左右差において性差が占める割合は1%未満であり、集団レベルでの大きな違いが見られたのは脳全体の容積のみであった[1]。その後2021年にカミーユ・ミシェル・ウィリアムズが主導した研究は、エリオットの結論に反論し、総脳容積における性差は身長の性差だけでは説明できず、脳全体の大きさを考慮に入れた後も双方向において数多くの領域に性差が残っていることを明らかにした[2]。2022年、アレックス・デカシエンはエリオットとウィリアムズの両方の研究を分析し、「人間の脳は、脳全体の大きさにおける性差を超えて、局所的な脳解剖学において再現性の高い性差を示して」おり、これらの差は「小~中程度の効果量」であると結論付けた[3]。2024年、エリオットはこれに反論し[4]、ウィリアムズらの研究を含む6つの大規模研究においてこれらの小~中程度の差異は再現されておらず、ヒトにおいて種全体にわたる局所的な脳の性差は存在しないと結論付けた。
2006年のレビュー[5]および2014年のメタ分析[6]では、構造的・機能的いずれの観点からも、男性と女性の脳が常に同一であると見做すことはできないと指摘されており、それらを「性的二形性」と呼んでいる。しかし、ウィリアムズ、デカシエン、エリオットの3名は、この用語が人間の脳を正確に表現するものではないという点で一致している。
神経科学を含めて、性は様々な方法で健康や病気に影響を与える可能性があり、アメリカ国立衛生研究所は研究者が研究のすべての段階で生物学的変数(SABV)としての性を考慮することを要求している[7][8]。
歴史
男性と女性の脳が違うという考えは、紀元前850年頃の古代ギリシャの哲学者の時代から広まっていた。1854年、ドイツの解剖学者エミール・フシュケは、男性の前頭葉が女性のものよりも1%ほど大きいという違いを発見した[9]。19世紀に入ると、科学者たちによって脳の性的二形に関する研究は大幅に増えていった[10]。ここ数十年まで、科学者たちは脳の構造的な性的二形について幾つか認識していたが、性別が人間の脳が日常的なタスクを実行する方法に影響を与えるとは考えていなかった。近年の分子研究、動物研究、神経画像研究により、男性と女性の脳の構造や機能の違いに関する多くの情報が明らかになってきた[11]。
カリフォルニア大学アーバイン校の神経生物学・行動学科の教授であるラリー・ケイヒルによると、女性と男性の違いである性差は性ホルモンや異なる人生経験(文化)に起因するものだと仮定されており、脳の構造や機能を解明するために必要なものだと判断されず、何十年もの間、神経科学は男性の脳だけを対象に研究を行っていた[8]。その後に徐々に脳の障害を理解して治療するにあたって、この仮定は間違っており脳の性差は小さいものではなく、その平均的効果量は神経科学の他の領域における平均的な効果量と変わらないと考えられるようになった[8]。
ロザリンド・フランクリン医科学大学の神経科学教授リーズ・エリオットによる研究では、男女の脳は僅かに違っているが、その差異は脳の大きさによるものであって、性や性差によるものではないとされている[12]。個々人の頭の大きさで説明できると判明した以上、脳の性による差は僅かであり、一定の傾向があるものではないとも述べている[12]。同教授らの論文によると、男女の脳で明らかに差があるのは大きさだけであり、女性の脳は男性よりも約11%小さく、これは男女の体格差に比例している[13]。これは、大きい脳を持つ男性と小さい脳を持つ男性とを比較すると、その脳の差は平均的な男性と女性の脳の差と同程度であることを意味している[13]。しかしこうした大きさの違いによっては、よく言われている男女の言動の違い、たとえば共感とか空間把握能力を説明できない。この結論は、男女の脳差に関する多くの出版物の内容とは異なるものである[12]。
認知神経科学を専門とする東京大学の四本裕子教授は、男性脳や女性脳の分類は生まれつき男性と女性の脳に違いがあるという誤認に基づいており、実際の解析ではモザイク的な個人差がみられると説明している[14]。
進化論的説明
性淘汰
ある研究によると、男性は平均して女性に比べて空間知能指数が 1SD高いとされる[15]。この領域は、認知能力における明らかな性差が現れる数少ない領域の一つである。アイオワ大学の研究者らは、女性の頭頂葉の灰白質が厚いため心的回転課題で不利になり、男性の頭頂葉の表面積が大きいため課題が有利になることを発見した[16]。頭頂葉は、空間認識能力、特に2次元および3次元のに関与するとされている脳の一部である。これらの奇妙な知見は、空間能力における性差が人類の進化の過程で生じたという説を裏付けるものと主張されたが、その結果は再現されておらず、空間能力の差に対する社会化や経験の影響は強いと考えられる[17]。一方でエリオットらは19件の機能的画像研究をレビューし、それらは総じて、心的回転課題中の男女双方において頭頂葉の活性化パターンが類似しており、信頼できる性差は認められないことを示した[1]。トロント大学の研究者らは、空間的スキルを必要とする一部の課題における男女間の差は、両グループが僅か数時間ビデオゲームをプレイしただけで、ほぼ解消されることを発見した[18]。ハーマン・ウィトキンは、女性は男性よりも「視覚への依存度が高い」と主張していたが[19]、この説は近年、異論が唱えられている[20]。
女性は平均して男性に比べて情報想起能力が高いとされる。これは、前頭前野による扁桃体の制御に基づいて、女性がリスクの評価をより複雑に行い、シナリオを熟考する傾向にあるためと考えられる。例えば、男性よりも情報を想起する能力が高いのは、配偶者選択における他の女性との競争中に女性に及ぼされた性的選択圧に由来する可能性が高い。社会的シグナルを認識する能力は最終的に子孫を最大化するため有利な特性であり、進化の過程で選択されたと思われる[21]。
オキシトシンは哺乳動物の子宮の収縮と乳汁分泌を誘発するホルモンであり、授乳中の母親の特徴的なホルモンでもある。研究によると、オキシトシンが空間記憶を向上させることが明らかになっている。オキシトシンはMAPキナーゼ経路の活性化を通じて、長期シナプス可塑性(シナプスを介した2つのニューロン間の強さの変化が数分以上続く)や長期記憶の増強に関与している。このホルモンは、母親が遠くにある食料源の位置を記憶し、子孫をよりよく育てるのに役立ったと考えられている[21]。
認知的差異
かつては、認知課題や問題解決の性差は思春期までは起こらないと考えられていた。しかしその後、生後6ヶ月までのテストステロン曲線下面積が後の性別典型的な遊び行動と有意に相関していることが明らかになった[22]。3歳から4歳の男児は同年齢の女児よりも、時計の文字盤の数字への着目[23]や心的回転課題(Mental Rotation Test: MRT)の遂行に優れている[24]ことが示されている。一方で、思春期前の女児は、単語のリストを思い出すことに優れていた[25]。このような認知の性差は、全体的な知能というよりも能力のパターンに対応している。
平均して、空間的なタスクでは男性は女性に比べて相対的に優れているとされる。具体的には、物体の回転や操作を必要とするテストでは、男性が有利になる[26]。コンピュータによる迷路課題のシミュレーションでは、男性は女性よりも速く、少ないミス数で課題を完了するさせた。さらに、男性は、投射物を誘導するなどの運動技能のテストで高い精度を示した[27]。また、反応時間や指で叩くテストでも男性の方が速くなっている[28]。一方で、『空間能力は本質的に男性的な能力であるという通説により、研究者たちは空間的概念を正確に測定するのではなく、性差を最大化するように一部の空間能力評価ツールを「選択的に作り上げて」きた』との指摘もある[29]。空間的課題に「人物の絵」を書き加えて社会的課題として提示すると、男女の性差が完全に消失した[30]。
平均して、記憶力を測定するテストでは女性は男性よりも相対的に優れていると言われる。女性は、文字、数字、そして迅速な命名タスクを含む処理速度で優位に立っている[28]。また女性は、物体の位置記憶と言語記憶に優れている傾向がある[31]。また、言語学習も女性の方が優れている[32]。物を合わせる作業や、指定された穴に釘を入れるなどの精密作業においては、女性の方が優れている。迷路や道順課題では男性は女性よりも少ない試行回数でゴールのルートを学習するが、女性は提示されたランドマークを多く記憶している。このことから、女性は日常生活の中で、男性よりもランドマークを使って自分の方向付けをしていることが示唆されている。また、物体が入れ替わったかどうかの記憶は、女性の方が優れていた[27]。その一方、女性はエピソード記憶では一貫して男性を上回ったが、意味記憶、一次記憶[注 1]、プライミングでは男女差がなく、「記憶力全般で女性が優れている」という主張は過剰な一般化であるとの意見もある[34]。また作業記憶のパフォーマンスには性差は見られなかった[35]。
解剖学的特徴
2021年の既存文献のメタ分析によると、性別は脳の構造または左右差の1%を占めるにすぎず、集団レベルでの大きな違いが見られたのは総脳容積のみであった[1]。2022年の追跡研究はこれらの知見に異議を唱え、「人間の脳は、脳全体の大きさにおける性差を超えて、局所的な脳解剖学において再現性の高い性差を示している」と結論付け、これらの差は「小~中程度の効果量」であると指摘した[3]。別の研究では、20歳時の男性の総有髄神経線維長は176,000kmであるのに対し、女性は149,000km(約15%少ない)であることが判明した[36]。
構造、神経伝達物質、機能において多くの類似点や相違点が特定されているが[6][37]、コーデリア・ファイン[38]やアネリス・カイザー、スヴェン・ハラー、シグリッド・シュミッツ、コルドラ・ニッチュ[39]といった一部の学者は、脳における重大な性差の存在に異議を唱えている。彼らは、いわゆる『ニューロセクシズム[注 2]』、方法論的な欠陥、出版バイアスなどの要因により、男女の神経生物学における先天的な違いは決定的な特定には至っていないと主張している[38][39]。臨床心理学者サイモン・バロン=コーエンは、ニューロセクシズムへの非難に対して性差に関する神経科学を擁護し、「ファインのニューロセクシズムの主張は、科学と政治を混同した誤りである」と論じ、さらに「機会均等を明確に支持し社会におけるあらゆる形態の差別に断固として反対する立場でありながら、性差の本質に関心を持つ科学者であることは可能だ」と付け加えている[40]。
男性と女性では脳の幾つかの点で違いが見られる。特に全体的な大きさに顕著な差があり、平均して男性の脳の方が大きい(8%から13%大きい)[6]が、脳の容積や密度と脳機能の明確な関連性は確立されていない[41]。さらに、活性化パターンに違いがあり、これは経験の結果として生じる可能性のある機能的な違いを示唆している。
後述の通り男性と女性の脳には解剖学的な違いがあるが、殆どの場合、こうした違いは出生時よりも成人期においてより顕著である。性差が性自認を反映しているのか、それともその結果なのかは明らかではない[42]。従って現在のエビデンスは、こうした過程に早期の要因、更には出生前の要因が何らかの形で関与していることを支持しているものの[43]、その原因や相対的な重要性は依然として不明である[42]。
脳容積
構造的には、成人男性の脳は平均して女性の脳よりも11~12%重く、10%大きい[44]。統計的には白質と灰白質の割合に性差があるが、この比率は脳の大きさと直接関連しており、一部の研究者[45]は、灰白質と白質の割合におけるこれらの性差は、男女間の平均的な脳の大きさの違いに起因すると主張している。一方、脳容積を調整した後もこれらの差異の一部は残るとする意見もある[37][46]。
また総脳容積を調整する前および調整後においても、女性の方が皮質厚が厚く皮質の複雑性が高いことが判明した。対照的に、表面積、脳容積、および拡散異方性(fractional anisotropy: FA)パラメーターは、全脳容積を調整する前と調整後の両方で男性の方が大きいことが明らかになった。しかし全脳容積を調整すると、女性の皮質厚(比)が増加した点を除き、これらの特性の全体的な差は減少した[46]。皮質の複雑性や皮質の特徴は知能と正の相関関係にあるという証拠があること踏まえ、研究者らは、これらの差異は、女性がより小さな脳サイズを補い、全体的な認知能力を男性と同等にするために進化した可能性があると推測したが、その形質が環境選択された理由については不明である[46]。
更に、男性と女性を別々のグループに分けて言語・数値的推論能力と反応時間を測定し、脳容積、脳表面積、皮質厚の差異を詳細に分析した結果、男性グループは言語・数値的推論能力と反応時間の両方で女性グループを僅かに上回った。続いて男女混合の2つのサンプル群を用いて、パフォーマンスの違いが男性と女性の脳のさまざまな属性(表面積など)によってどの程度媒介されているかを検証すると、言語・数値的推論テストでは表面積と脳容積が両群ともに成績の82%以上を媒介していたのに対し、皮質厚が媒介する割合は遥かに低く、各群で7.1%および5.4%にとどまった。反応時間テストでは全脳容積と白質容積が成績の27%以上を媒介したが、その他の属性はいずれも成績の媒介率が小さく(15.3%未満)、特に平均皮質厚は成績の3%未満しか媒介しなかった[47]。
神経科学の学術誌『Progress in Brain Research』のレビューシリーズによると、男性では側頭平面およびシルヴィウス溝がより大きく長い一方、女性では側頭上皮質、ブローカ野、海馬、尾状核において、脳全体の容積に対する相対的な容積が有意に大きいことが明らかになっている[46]。また、側頭極を接続する前交連の正中矢状面断面積と線維数、および視床を接続する視床間橋も、女性の方が大きい[46]。
側性
脳の側性化は男女間で異なる可能性があり、男性は女性よりも一貫して片方の半球を行動に用いる傾向があるため、脳の左右差がより顕著であると言われることが多い。この考えを裏付ける要因の一つとして、男性における左利きの割合の高さが挙げられる。また、言語能力は一般的に女性よりも男性の方が左半球優位である[48][49]。更に、男性は感情的な顔の処理課題においてより強い右半球優位を示しており[50][51]、脳の左右差は言語能力だけに留まらないことが示唆される。これらの違いは性ホルモンに直接起因するのではなく、左右脳半球の相互作用や脳梁の構造の差異といった要因に関連している可能性がある。コルチゾール値やドーパミンの左右非対称性といった他の生物学的要因も、特に意思決定や感情反応において、これらの違いに影響を与えている可能性がある[52]。
脳の側性化を測定する手段として「向きを変える際の好み」を用いた研究からも、更なる証拠が得られている。側性化の方向や強さにおいて顕著な性差は見られなかったものの、男性は様々な状況においてより一貫した側性化を示した。これは、男性の方が脳の側性化がより強く、より安定している可能性を示唆している。しかし、脳の側性化と認知能力との関係は依然として不明確であり、多くの生物学的要因の影響を受けていると考えられる[53]。
全体として、人間の脳の側性化における性差を示す証拠は依然として弱い。2008年のメタ分析では、側頭平面の非対称性または機能的言語のいずれにおいても、男性と女性の間で有意な差は認められなかった[54]。更に40年間の研究を総括した2019年のレビューでは、側性化における性差は一貫して観察されるものの、「極めて小さい」(Cohen's d = 0.05~0.15)ものであり、「…認知機能における性差の背後にある原動力でないことは確実である」と結論づけられている[55]。
扁桃体

男性と女性の間には、扁桃体の大きさや機能の違いを示唆する行動の違いが見られる。2017年に発表された扁桃体の容積に関する研究のレビューによると、男性の方が扁桃体が10%大きいという絶対的な大きさの差が認められた。しかし通常は男性の脳の方が大きいため、この知見は誤解を招くものであることが判明した。脳の大きさを補正して比較したところ、扁桃体の大きさには性差は見られなかった[56]。
活性化の点では、扁桃体においては性差がない。行動テストにおける差異は、活性化の違いではなく性差による扁桃体の潜在的な解剖学的・生理学的差異による可能性がある[57]。
感情表現、理解、行動は男性と女性で異なるようである。2012年のレビューでは、男性と女性では感情の処理に違いがあるとの結論が示された。男性は脅威となる刺激に対してより強い反応を示す傾向があり、身体的な暴力に訴えることも多い[42]。
海馬
海馬の萎縮は、女性で有病率の高い様々な精神疾患と関連している。更に男性と女性では記憶力に差が見られ、これは海馬容積(HCV)の違いを示唆している可能性がある。2016年に行われた容積差のメタ分析では、全脳容積を補正しない場合、男性の方が海馬容積が大きいことが示された。しかし個人差と全脳容積を補正した後には、女性の方が海馬容積が大きいと予想されたにも拘わらず、有意な性差は認められなかった[58]。
灰白質
2014年のメタ分析では、男女間の灰白質量に小さな差が認められた。その結果男性では、両側の扁桃体、海馬、前海馬傍回、後帯状回、前帯状回、楔前部、被殻、側頭極、左後帯状回および前帯状回の各領域、ならびに小脳の両側のVIIb葉、VIIIa葉、Crus I葉、左VI葉、右Crus II葉において、灰白質の体積がより大きかった[6]。一方で女性では、右前頭極、下前頭回および中前頭回、三角部、側頭平面/頭頂弁蓋、前帯状回、島皮質、横側頭回、両側視床および前帯状皮質、左海馬傍回、外側後頭皮質(上部)において、灰白質の体積がより大きいことが明らかになった[6][注 3]。
密度の点でも、男女間で違いが見られた。男性では、左側扁桃体、海馬、島皮質、淡蒼球、被殻、前障、右小脳第VI小葉の一部など、幾つかの領域で密度が高い傾向があった[6]。一方、女性では、左前頭極の密度が高い傾向があった[6]。
これらの違いの重要性は、脳の側性化(男性は左半球の体積が、女性は右半球の体積が大きい)にあるだけでなく、その知見を神経学的および精神医学的疾患の相違を解明するために活用できる可能性にもある[59]。
トランスジェンダー研究
トランスジェンダーの神経学的差異に関する初期の死後研究では、主に視床下部や扁桃体など、脳の性差が認められる領域に焦点が当てられていた。磁気共鳴画像法(MRI)を用いた一部の研究では、トランス女性の特定の脳領域において、シスジェンダーの男性と比較して被殻の容積が大きいなど、女性特有の特徴が見られることが報告されている[60]。しかしこれらの研究では同時に、トランス女性の脳全体の灰白質容積はシス男性の対照群と概ね一致していることも明らかになっている。
死後研究では、分界条床核(BSTc)および前視床下部間質核の第3神経核(INAH-3)における神経細胞数の分析に基づき、トランス女性のこれらの領域に女性特有の特徴が見られる可能性があることが報告されている[61]。しかしこれらの知見に関しては、幾つかの方法論上の限界が指摘されている。研究対象群間で性的指向が一貫して調整されていなかったため、性同一性に関連する神経解剖学的特徴と性的指向に関連する特徴を区別することが困難となっている。これは、同性愛者のシスジェンダー[注 4]個人を対象とした研究においても、視床下部および関連する脳領域における性差が報告されているためである[62][63]。
脳のネットワーク
男性でも女性でも、両側中前頭回、左帯状回、右楔前部、左下頭頂小葉・上頭頂葉、右前障、左中側頭回などで構成される一貫した活動的な作業記憶ネットワークを有している[64]。作業記憶には同じ脳ネットワークが使われるが、特定の領域には性差が見られる。他のネットワークでも性差が明らかになり、女性は前帯状皮質、両側扁桃体、右海馬などの前頭前野や大脳辺縁系の活動が高い傾向があるのに対し、男性は小脳、上頭頂葉の一部、左島皮質、両側視床などに広がる分散型ネットワークを持つ傾向があることが判明した[65]。
2017年の脳の大規模ネットワークの観点からのレビューでは、心的外傷後ストレス障害や大うつ病性障害のようなストレス関連疾患に女性が罹患しやすいことは、顕著性ネットワークが過剰に活性化し、実行制御ネットワークを阻害するとされるこれらの疾患において、社会的なストレス要因への曝露や女性が利用できる対処戦略に加え、根本的な性差に基づく脳の違いにある可能性が示唆された[66]。
神経化学的差異
ホルモン
性腺ホルモン(性ホルモン)には、主に精巣で合成されるステロイドホルモンであるアンドロゲン(テストステロンなど)と卵巣で合成されるエストロゲン(エストラジオールなど)がある。性ホルモンの産生は性腺刺激ホルモンである黄体形成ホルモン(LH)と卵胞刺激ホルモン(FSH)によって制御されており、視床下部からのゴナドトロピン放出ホルモン(GnRH)によって刺激されて下垂体前部から放出される[67]。
ステロイドホルモンは、脳の発達だけでなく、成人期の恒常性維持に幾つかの影響を及ぼす。例えば、エストロゲン受容体は視床下部、脳下垂体、海馬、前頭皮質に存在し、エストロゲンが脳の発達に関与していることが示唆されている。また、性腺ホルモン受容体は前脳基底核にも存在することが確認されている[68]。
テストステロンと男性の脳
性腺ホルモンであるテストステロンはアンドロゲン(男性ホルモン)であり、男性の精巣と女性の卵巣[69]でそれぞれ約14,000μg/日と600μg/日の割合で合成される[67]。テストステロンは発生中の脳に組織的な影響を及ぼす[70][71]。
エストロゲンと女性の脳
エストラジオールは、特に学習と記憶を用量依存的に強化することで認知機能に影響を与える。過剰なエストロゲンは学習した課題の遂行能力を低下させるだけでなく、記憶課題の遂行を妨げるなど、負の影響を及ぼす可能性がある。その結果、女性では男性と比較して、こうした課題の遂行能力が低下することがある[72]。
卵巣摘出術、閉経を誘発する手術、自然な閉経は、女性のエストロゲン濃度の変動や減少の原因となる。その結果内因性オピオイドペプチドの「効果が弱められる」。オピオイドペプチドは、感情や動機付けに関与していることが知られている。内因性オピオイドペプチドであるβ-エンドルフィン(β-EP)の濃度は、雌ラットにおいて卵巣摘出術後に視床下部、海馬、および下垂体で(脳領域によって程度は異なるものの)減少することが確認されている。このようなβ-EP濃度の変化は、閉経後の女性の気分変動、行動障害、ほてりなどの原因である可能性がある[68]。
プロゲステロンと男女の脳
プロゲステロンは、男性と女性の脳の両方で合成されるステロイドホルモンである。このホルモンには、エストロゲンとアンドロゲンの両方の化学的構造に見られる特徴が含まれている[73]。女性ホルモンとして、プロゲステロンは男性よりも女性においてより重要な役割を果たしている。月経周期では、プロゲステロンは排卵期直後に増加して、オキシトシンの吸収など、黄体形成ホルモンの作用を抑制する[74]。男性では、プロゲステロンの増加は思春期の青年の自殺念慮と関連していることが示唆されている[75]。