姚震
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清末に日本に留学し、早稲田大学に入学する。1908年(光緒34年/明治41年)に専門部法律学科、翌1909年(宣統元年/明治42年)に大学部法学科をそれぞれ卒業し、併せて法学士の称号を取得した[3]。帰国後は、清朝において法科進士となり、法部員外郎、大理院推事を歴任した[4]。
中華民国成立後の1912年(民国元年)、新法典編纂会調査員として法典編纂作業に参加した。また、大理院第一庭庭長にも任じられている。同年冬には司法会議会員となった。翌年夏、総統府軍事法律顧問、甄抜司法人員会審議員も兼ねた。1915年(民国4年)11月、司法官懲戒委員会委員となる[1]。
袁世凱死後に姚震は安徽派に属し、1918年(民国7年)夏、高等捕獲審検庁首席評事も兼任した。同年秋には大理院院長兼高等捕獲審検庁庁長に昇進している[1]。しかし1920年(民国9年)に安直戦争で安徽派が敗北すると、直隷派の意向により大総統・徐世昌から安徽派十巨頭の1人として逮捕令を発せられてしまう。姚は徐樹錚や兄の姚国楨らと共に日本公使館に逃げ込んだ[2]。
1922年(民国11年)、姚震は段祺瑞の秘書長となり、段が復権した1924年(民国13年)12月には臨時法制院院長に任命された。1927年(民国16年)6月、潘復内閣の司法総長に任じられ、翌1928年(民国17年)2月には大理院長に転じた。なお、姚震は北京政府最後の大理院長である[1]。同年6月に北京政府が崩壊すると、国民政府が姚の逮捕令を発したため、姚は天津の日本租界に逃げ込んだ。