綏靖天皇
日本の第二代天皇とされる伝説上の人物
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略歴
名
事績
神武天皇76年3月11日に父帝が崩御した際、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)は皇位に就くため弟の神八井耳命と神渟名川耳尊を害そうとした(タギシミミの反逆)。
己卯年[注 2]11月、この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、神武天皇の山陵を築造し終えると、弓部稚彦(ゆげべのわかひこ)に弓を、倭鍛部(やまとのかぬちべ)の天津真浦に鏃を、矢部に箭を作らせ襲撃の準備を整えた。そして片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近か[5])の大窨(おおむろ)に臥せっていた手研耳を襲い、これを討った。
この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることが出来ず、代わりに神渟名川耳が射て殺したという。神八井耳はこの失態を深く恥じたため(この部分は神武天皇42年に既に立太子していたという書紀の記事とは矛盾する)、神渟名川耳が皇位に就き、神八井耳は天皇を助けて神祇を掌ることとなった[5][1]。
系譜
后妃・皇子女
年譜
宮
陵・霊廟
(奈良県橿原市)
陵について『日本書紀』では前述のように「桃花鳥田丘上陵」、『古事記』では「
また皇居では宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族と共に綏靖天皇の霊が祀られている。その他、阿蘇神社では「金凝神」として十二宮に祀られている。
昭和27年(1952年)6月22日、皇居皇霊殿にて綏靖天皇二千五百年式年祭の儀が行われた。また、陵所において綏靖天皇山陵二千五百年式年祭の儀が行われ、奉幣のための勅使として掌典の酒井忠康が参向した[15]。
地方伝承
甲斐国の伝承
甲斐国に伝承が多く存在する。山梨県甲府市中央にある甲斐奈神社や甲府市下向山町にある佐久神社、甲府市朝気にある熊野神社は綏靖天皇の御代創建とされる。
甲斐奈神社
甲斐国式内社甲斐奈神社社伝によると”第二代綏靖天皇の皇子土本毘古王、甲斐国疏水工事を行い、開拓の御業なせし時、中央の山上甲斐奈山に、白山大神を祀る事に始まり、以来延喜式神名帳に載る如く甲斐国鎮守の神として尊崇された”とされる[16]。
佐久神社
甲斐国八代郡佐久神社社伝には”彦火火出見尊の後裔向山土本毘古王は綏靖天皇の勅命により国造として甲斐に入国後、一面の湖水を切り開き平土を得た。住民安住の地を確保した功績は偉大なるものであり、甲斐の大開祖として崇められた”とある[17]。
熊野神社
甲斐国山梨郡熊野神社社伝によると”第二代綏靖天皇の御宇、皇子土本毘(とほび)古王(こおう)、甲斐国開拓に際し、邑を設け守護神として奉斎。又、第十二代景行天皇の御宇、日本武尊ご東征の節、酒折宮にご仮泊中度々この地にお出ましあり。そのつど住民が朝餉を奉り、この縁によってこの地を朝気(あさけ)と称す。故に五穀豊饒の御神徳篤い。”とある[18]。
いずれの神社の社伝でも向山土本毘古王は綏靖天皇の皇子とされるが古事記・日本書紀にも記載がなく実在が疑われる。しかし佐久神社社伝に彦火火出見尊の後裔であることが書かれていることから近縁皇族からの養子の可能性がある。
生誕の異説
筑前国怡土郡産宮神社社伝によると”産宮神社御祭神である奈留多姫命は御懐妊の際、胎児教育をとても大切にされ、祖神豊玉姫命・玉依姫命に産育の吉兆を祈られた。 そこで「わたくしのお腹にいる子が、月が満ちて生まれてきた時、健康であったならば、萬世産婦の守護神となりましょう」と誓いを立てられた。 そしてお産に臨まれ、心忘れたかのように皇子神渟名川耳命(第二代綏靖天皇)をお生みになられた。”とある[19][20]。しかし『古事記』『日本書紀』『先代旧事本紀』には綏靖天皇の母親はヒメタタライスズヒメとされており正史とのずれがある。ただ社伝によると”三韓討伐の折、神功皇后が出産が遅れることを産宮神社の神に祈り、そのしるしがあって、帰国後、無事に皇子(応神天皇)を出産した。そのお礼に百手の的射を奉納した。”とも伝えられているため古来より安産信仰があったものと思われる[19]。
御生神事
山城国式内名神大社賀茂御祖神社社伝によると綏靖天皇の御代(BC580年頃)に、現在の御蔭祭の始源である御生神事がはじまったとの所伝がある[21]。
多坐弥志理都比古神社
大和国式内名神大社多坐弥志理都比古神社社伝によると、当社は綏靖天皇2年(BC580年)の創始で、皇兄神八井耳命が春日県に邸宅を造り、そこに神籬磐境を立てて自ら神祇を司り、春日県主の遠祖・大日諸神を祭祀者として奉祀せしめたことにはじまるとされる。また『日本書紀』にも同様に、皇位を弟に譲り、自らは神祇を祭ったと記載されており、当社がその神祇を祀った場所とされる[22]。
田村神社
旧事大成経神社本紀によると香川県高松市にある讃岐国式内名神大社田村神社は綏靖天皇の御代(BC580年頃)、当社祭神である天隠山大神(高倉下命)と、その子の天五田根大神(天村雲命)がこの国に至り、この地の祠(現在の田村神社)の場所で国を治めた、と書かれている[23]。
飽富神社
千葉県袖ケ浦市飯富字東馬場にある上総国式内社飽富神社は綏靖天皇元年(BC581年)の創始とされ、天皇の皇兄の神八井耳命が創建したと伝えられている[24]。
榛名神社
群馬県高崎市にある上野国式内社榛名神社は綏靖天皇の時代に饒速日命の御子、可美真手命が子とともに山中に神籬を立て天神地祇を祀ったのが始まりといわれている。
信仰
考証
実在性
綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、後世の創作性が強いとされる。
一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、在地勢力の磯城県主や十市県主・春日県主との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もある。特に綏靖天皇は他の7代と異なり皇位継承争いの記述があること、在位年数が最も短く、2倍年暦、4倍年暦で考えれば実際の年数は16年または8年と現実性があることが指摘される[29]。
名称
和風諡号である「かん-ぬなかわみみ」のうち、「かん」は後世に付加された美称、末尾の「み」は神名の末尾に付く「み」と同義と見て、綏靖天皇の原像は「ぬなかわみみ(渟名川耳/沼河耳)」という名の川の神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある[1]。また渟名川(ぬなかわ)は『万葉集』に記載があり、ヒスイの産地であった姫川に比定する説もある[30]。姫川の由来となった沼河比売は『古事記』に八千矛神が高志国に出かけ沼河比売に求婚する話があり、『出雲国風土記』にその後二人の間にできた神は美保神社の祭神である事代主命と記載されている[31]。事代主命は綏靖天皇の皇后五十鈴依媛命や母媛蹈鞴五十鈴媛の父に当たることから、渟名川の神(を娶った)ミミ(首長)と読むこともできる。
