安骨浦海戦

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安骨浦海戦(あんこつほかいせん)は、1592年(文禄元年)7月10日に、日本水軍と朝鮮水軍が安骨浦(現在の昌原市鎮海区)で交戦した海戦。

概要 安骨浦海戦, 交戦勢力 ...
安骨浦海戦
戦争文禄の役
年月日文禄元年7月10日1592年8月16日
場所朝鮮国慶尚道熊川県安骨浦
結果:朝鮮水軍の勝利
交戦勢力
朝鮮国 豊臣政権
指導者・指揮官
李舜臣
元均
李億祺
九鬼嘉隆
加藤嘉明
戦力
板屋船58隻[1]
挟船約50艘[1]
安宅船21隻[2]

関船15隻[2]
小早船6隻[2]

損害
李舜臣率いる19名戦死[3]
李舜臣率いる114名負傷[3]
その他の兵力は不明
42隻撃沈[4]
または大多数が撃沈[5][6]
または20隻撃沈[7]
または撃沈無し[8]


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海戦の背景

1592年7月8日、李舜臣元均李億祺らとともに閑山島海戦脇坂安治率いる日本水軍を撃破した後、加徳島へ向かう途中、安骨浦に日本軍の戦船が停泊しているとの報を受けた[6]

そこで李舜臣は7月10日未明に作戦を立て、全羅右水使の李億祺に港外で待機して伏兵を配置し、戦闘開始後に突入するよう命じた。一方、自らの艦隊は鶴翼陣を展開して先鋒を務め、慶尚右水使の元均の艦隊がこれに続き、一斉に安骨浦へ進撃した[6]

日本側は抜け駆けした脇坂を追った九鬼・加藤の両水軍が、敗走した脇坂と合流した。脇坂は釜山海への撤退を進言したが、九鬼・加藤は一戦交えることを決断し、安骨浦に投錨して迎え撃った[9]

経過

閑山島海戦の翌日、李舜臣の艦隊は退却する日本水軍を追って巨済島東端まで進撃した。さらに翌日、安骨浦に停泊していた42隻の日本艦隊を攻撃した[5]

安骨浦に停泊していた日本軍の戦船は計42隻で、そのうち2隻の大型船は三層および二層構造を備え、港口に面して停泊していた。これらは九鬼嘉隆加藤嘉明らが率いる日本水軍の主力であった[6]

しかし、港内は水深が浅く、朝鮮水軍の大型船は容易に進入できなかったため、李舜臣はたびたび日本艦隊を港外へ誘い出そうとしたものの、日本軍は険しい地形と堅固な守備を頼みとして出撃しなかった[6]

そこで李舜臣は作戦を変更し、諸将の戦船を交代で港内に進入させ、火砲や長片箭によって日本艦隊を攻撃させた[10]。やがて日本軍も応戦を開始し、その最中に李億祺の艦隊が加わったことで戦闘は激化した[6]

九鬼家の軍記『九鬼御伝記』によると、九鬼水軍の旗艦日本丸が湾口を塞ぐ形で停泊し、他の船はその奥に停泊した。朝鮮水軍は1艘づつ順繰りに棒火矢を射撃し、また半弓を一度に浴びせかけた。これにより日本丸は総矢倉を打ち倒され端々しか残らず、また帆柱も射切られたが、帰還している。日本水軍も鉄砲を撃ち、これに辟易した朝鮮水軍の将兵は胴壁から降り、下から射撃した[9]

『高麗船戦記』には来襲した大船の3艘目はめくら船で鉄で装甲し、石火矢・火矢・大雁股を放ったとあり、亀船と見られる。攻撃は辰の刻から酉の刻まで行われたとあり、攻撃の様子は『九鬼御伝記』と同じだが、手負い・死人が続出したため、その夜の内に釜山浦に帰投したとある[1]

李舜臣率いる朝鮮水軍は、日本軍の指揮艦である日本丸と、その側にあった二層構造の楼船を集中攻撃して撃破した[11]

日本軍は負傷者を小船で運び出し、兵力を大型船に集結させて抗戦したが、陸上へ退却した。李舜臣は250の首級を獲得し、敗走した日本軍が夜間に再び海上へ脱出することを予想して、一部の日本船を残したまま港外へ移動した[6]

朝鮮水軍は戦船を交代で港内に進入させ、砲撃と火箭による攻撃を加えた[5]

俊沙はこの戦いで投降し、その後は降倭となった[12]

日本側艦隊の損失について

本海戦における損害規模の記述は、当時の交戦当事国の記録に加え、後世の各国研究者による多角的な分析により、史料ごとに顕著な差異が見られる。

撃沈無し
7月16日付の朱印状によれば、九鬼嘉隆加藤嘉明から11日に発せられた報告を受けた秀吉は、日本側の軍船に「1艘の損失も無かった」ことを賞している。同史料には、巳の刻から酉の刻まで戦闘が行われ、敵側(朝鮮水軍)に多数の負傷者を出させて撤退させた旨が記されている[8]
20隻撃沈
アメリカの歴史研究者ユハン・キムは、日本軍は深刻な損傷を受けた旗艦日本丸を含む22隻の生存艦に乗って撤退・脱出したと記述している[7]
大多数が撃沈
7月10日付の状啓によれば、李舜臣は、日本水軍が出撃してこなかったため、諸将が交代で終日攻撃を続け、その結果として敵船(日本水軍)のほとんどを焼き払ったと記録している[13]
生理学者杉晴夫は、日本艦隊はほぼ壊滅状態に陥り、九鬼嘉隆と加藤嘉明は陸上へ逃れた後、夜陰に乗じて小舟で脱出し、釜山市へ撤退したと記述している[5]
42隻撃沈
国史編纂委員会は、朝鮮水軍が日本の大船21隻、中船15隻、小早船6隻を壊滅させたと記述している。さらに、朝鮮水軍は加徳島の沖合から東萊の没雲台に至る広範囲で縦列陣形をとりつつ軍威を示し、各地に偵察隊を派遣したが、日本水軍は釜山湾へ退却したと付記している[14]
中国の歴史研究者である李景温は、日本の水兵たちは船を放棄して上陸し逃走したが、朝鮮水軍は逃走する日本水軍に対して継続して砲撃を行い、合計42隻の日本艦船を焼失または撃沈したと記述している[4]
中国の歴史研究者である厳聖欽は、李舜臣が地理的環境に精通しているという利点を十分に活用すると同時に、亀甲船の堅牢さ、迅速な機動性、強力な火力を用いて日本船42隻を撃沈したと記述している[11]
カナダの歴史家サミュエル・ホーリー(Samuel Hawley)は、日本水軍の艦艇損失を42隻と記述している[3]

海戦後の動向

日本軍は味方の戦死者の遺体を12か所に集めて積み上げて焼き払い、翌日になっても焼け残った骨や手足が散乱しており、安骨浦の城内外には流れた血があちこちに残り、地面が赤く染まっていた[2]

元均は小島に取り残された日本兵の掃討を任されていたが、日本の大艦隊が接近しているとの誤報を受けて撤退した。日本兵たちは、破壊された船の残骸で筏を作り、海岸へたどり着いた[3]

秀吉は、7月11日付の報告書を通じて安骨浦海戦の状況を把握し、同16日付の朱印状を発給して九鬼嘉隆および加藤嘉明の両名に賞を与えた。これにより、秀吉側ではこの海戦の結果が自軍の損失なしに敵を退けたものとして公式に受理・記録されることとなった[8]

この日の戦闘により、小西行長が率いて平壌城に駐屯していた日本軍は、日本水軍の支援を受けられなくなり、孤立することとなった[6]

その後、秀吉は先に発した朝鮮水軍との積極的交戦を禁じる軍令を再度出すとともに、巨済島への築城、大筒・火薬の供与、大船の建造を命じた[8]

関連作品

  • 2024年、昌原市立芸術団によるミュージカル『安骨浦海戦』[15]

脚注

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