宮崎剛 (1918年生の内野手)
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| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 | 台湾台北市 |
| 生年月日 | 1918年12月17日 |
| 没年月日 | 2015年5月22日(96歳没) |
| 身長 体重 |
167 cm 64 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 二塁手、三塁手 |
| プロ入り | 1940年 |
| 初出場 | 1940年3月19日 |
| 最終出場 | 1955年10月16日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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宮崎 剛(みやざき たけし、1918年12月17日 - 2015年5月22日[1][2])は、台湾台北市大正町出身[3](長崎県南松浦郡福江町生まれ[3])のプロ野球選手(内野手)、野球指導者、監督。
プロ入り前
両親の生まれ故郷である、五島列島の最南端にあたる福江島に生まれる[3]。
父が台湾総督府の役人だったこともあり、生後3ヶ月で台湾に移住。建成小学校時代は野球部だった[3]。台北一中入学後はラグビー部に所属していたが、3年次に肋膜炎を患ったことにより、ラグビー部を退部[4]。両親は宮崎が医者となることを望んでおり、宮崎も医者になるため勉強をしていたが、4年次に肋膜炎が完治したため、卒業後は医学の道へと進むことを条件に野球部に入部[3][4]。最終学年となった1936年夏の台湾予選では決勝に進出するが、呉昌征の嘉義農林に敗れ、在学中の甲子園出場は果たせなかった。
台湾一中卒業後は医者になるために、京城医専や慶應大学医学部を受験するが、どちらも不合格となる[3]。
もう1年勉強を頑張る道もあったが、どうしても野球への道を諦めきれず、両親との論争のすえ、台湾一中の先輩が在籍していた同志社高等商業学校に入学[3][4]。2番遊撃手として活躍した。
現役時代
卒業後は満洲電信電話への就職が内定していたが、同志社高商コーチの井口新次郎の口利きで、1940年に大阪タイガースへ入団[3]。遊撃手には皆川定之がいたため二塁手に回ると、主に1番打者として活躍した。
1942年に応召され、久留米西部第54連隊に入隊[4]。予備士官学校で本堂保次と出会い、幹部候補生に合格し満州へ渡る[5]。満洲での教育期間中に、皆川定之と再会している。その後、中支や南支を転戦し、衡陽で終戦を迎えた[3]。
1946年6月に、両親が引き揚げていた福江島に復員すると、阪神からの復帰要請があったために、シーズン途中で復帰[6]。しかし敗戦によるハイパーインフレの為、阪神が提示する給料では生活が苦しくなり、同年限りで退団。これに、台湾一中時代の野球部監督だった渡辺大陸が目をつけ、阪神時代の3倍の給料を提示し、国民リーグ・宇高レッドソックスへと引き抜いた[5]。1947年は1番打者として秋季には首位打者を獲得した。
国民リーグ解散後、阪急の村上実球団代表から「タイガースとの話はつけてあるから、ウチへ来てくれ」との誘いを受け、阪急ブレーブスへ入団[5](なお、実際はタイガース側に無断で話をしており、後に阪神・阪急間でいろいろと問題になったらしく、解決まで紆余曲折あったとか[5])。阪急では三塁手として活躍するが、次第に待遇面に不満を持ち、1950年の2リーグ分裂を機に、大洋の総監督に就任した渡辺大陸の誘いで、大洋ホエールズへと移籍した[3][5]。また大洋との契約締結後、国民リーグ時代のオーナーだった宇高勲(当時西日本パイレーツスカウト)から西日本への移籍話があったが、すでに大洋との契約締結後だったため、同じく阪急の対応に不満を持っていた日比野武らを宇高に紹介している[5]。
大洋では三塁手として活躍。1952年には24試合連続安打を記録している[7]。コーチ兼任となった1955年限りで現役引退。
引退後
引退後は大洋で一軍コーチ(1956年, 1959年 - 1962年, 1973年)、二軍監督(1957年 - 1958年, 1963年 - 1965年, 1967年, 1972年)、ヘッドコーチ(1968年)、スカウト(1969年 - 1970年)、一軍守備コーチ(1966年)を歴任。1966年は三原脩監督の代理、1972年は別当薫監督の代理を務めた青田昇監督代行の更に代理でチームを指揮。
1974年には正式に監督に就任。機動力野球を前面に押し出し、ルーキーの山下大輔が存在感を発揮[8]。中塚政幸が盗塁王、チーム打率もリーグ1位の.265を記録するなど明るい話題もあったが、投手陣がリーグ唯一の防御率4点台と崩壊[9]。首位から17.5ゲーム離された5位に終わり1年限りで解任となった[9]。