皆川定之
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| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 | 群馬県桐生市 |
| 生年月日 | 1919年10月9日 |
| 没年月日 | 1986年12月11日(67歳没) |
| 身長 体重 |
157 cm 60 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 遊撃手 |
| プロ入り | 1937年 |
| 初出場 | 1937年4月7日 |
| 最終出場 | 1952年9月13日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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選手歴 | |
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監督歴 | |
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この表について
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皆川 定之(みながわ さだゆき、1919年10月9日 - 1986年12月11日[1])は、群馬県桐生市東堤町出身[2]の元プロ野球選手、コーチ、監督。
プロ野球選手の皆川康夫は子。
プロ入り前
桐生西小卒業後、桐生中学に進学。当初、父は進学校である桐生工業に進んでほしいと思っていたが、兄が以前通っていたことや、野球部が強いことなどから父の反対を押し切り、同校に入学した[2]。
桐生中学時代には、2年夏からベンチ入りを果たすと、1934年夏(2回戦敗退)、1935夏(2回戦敗退)、1936年春(準優勝)、1936年夏(ベスト4)の4回の甲子園に出場[3]。同級生には大阪タイガースでも同僚になる青木正一(投手)、稲川豪一(三塁手)、後に近鉄のスカウトになる塚越源市(捕手)がいた。
当時、エースの青木は1936年春の選抜終了後、桐生中卒業後はタイガースに入団する契約を交わしていた[4]。その際桐生中監督の稲川東一郎が、タイガース側に「皆川も獲ったらどうか」と進言する[4]。しかしあまりにも体格が小さかったので、「卒業後に行う入団テストで判断したい」と返事を保留していた[2]。だが1936年夏の甲子園で皆川が活躍したことから、即座にタイガース入りが内定したという[2][4]。
現役時代
1937年に大阪タイガースに入団。当初は岡田宗芳の存在もあり、出場機会に恵まれなかった[2]。しかし、岡田の兵役が近づいてきたため、次世代の遊撃手として経験を積ませるべく、1938年秋季シーズンから出場数が増え始める。その結果、才能が開花。岡田を二塁手に追いやると、1940年、1941年は遊撃手のレギュラーとして、全試合に出場。1939年~41年にかけて、3年連続東西対抗にも選出された。1941年オフに応召され、退団。
戦時中は満州で幹部候補生として教育を受ける。このとき、タイガースで二遊間を組んでいた宮崎剛と再会している[5]。その後、志願して沖縄戦における特攻隊である振武隊に入隊[2][6]。しかし、出撃前に沖縄戦が終結したため、大邱に配置転換され、同地で終戦を迎える[2]。ただし、戦争末期の混乱状態の中であったために、特攻隊として戦死したという誤情報が家族に伝わっており、復員時は幽霊だと思われていたという[2]。
その後は稲川東一郎が監督を務める、全桐生に入団。桐生中学出身者が多数を占める同チームで、1946年、1947年の都市対抗に出場した[7]。
1948年に苅田久徳の誘い[2]で急映フライヤーズに入団しプロ復帰。同年途中で休養した苅田久徳に代わって代理監督も兼務した。翌1949年は主将に就任。その後も1952年までプレーし、現役を引退した[1]。
引退後
その後は郷里に戻り、社会人野球の大生相互銀行でプレー。1953年の都市対抗にも出場している[7]。その後は同じ前橋市のチームである全前橋でプレーしていたが[1]、東急時代のチームメイトであった高林哲夫が監督を務めていた河合楽器(浜松市)に入団[8]。引退後は河合楽器の監督(1958-1962)も務めた[8]。
監督退任後も浜松市で仕事があったようで、長男・康夫もその縁で浜松の高校に通っていた[9]。
1984年に脳梗塞で倒れ、伊豆で療養生活を送っていたが[10]、1986年12月11日、急性肺炎のため浜松市内の病院で死去[11]。67歳没。
選手としての特徴・人物
公称160cm[12]だが、実際は157cm(156cmとする資料もあり[13])という小兵選手[6]。当時としても特に小柄で、公式戦に初出場した際、球審を務めていた二出川延明は皆川をバットボーイと勘違いし「坊や、向こうへいけ」と言ったという話が伝わっている[10][13](なお、実際バットボーイの方が背が高かったと、皆川も後に認めている[14])。
皆川の選手としての特徴はその守備にあった。タイガースで同僚だった松木謙治郎は、後に皆川について「守備だけなら吉田以上」と書いている[4]。
その一方で、打撃は打率が2割5分を超えたことがない、そもそも2割を切るシーズンもある上、シーズン最多三振を記録する(1951年)など難があった。しかし、その一方で選球眼に優れており、四球を数多く選んでいる。1949年シーズンは、リーグ最多の80四球を選んでおり、打率.178ながら、出塁率.295を記録している。出塁率3割を超えているシーズンも多い。また、犠打も多用しており、シーズン最多犠打を3シーズン記録している(1941年、1948年、1951年)。
1938年11月16日の対イーグルス戦では、2回表、8番に入った青木正一の打席で、9番の皆川が打順を間違えて打席に入り、皆川はライトフライに倒れる。すぐに打順間違いをイーグルスに指摘され、記録上は皆川の打席は青木が打った事になった。続く打席で皆川が再び入り、四球を選んでいる。これは日本プロ野球史上初となる、打順間違いの事例となった[15]。