富永資広 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代後期 - 安土桃山時代生誕 不明死没 文禄4年9月16日(1595年10月19日)[1]別名 孫太夫[2] 凡例富永 資広時代 戦国時代後期 - 安土桃山時代生誕 不明死没 文禄4年9月16日(1595年10月19日)[1]別名 孫太夫[2]主君 吉良義昭、松井忠次、松平信康、松平康親氏族 伴姓富永氏[3]父母 父:手島造酒佑[3]養父:富永正安[注釈 1][3][4]兄弟 忠安、資広、資康、小笠原吉次の妻、左右田正次の妻[5]妻 戸田清勝の娘[6]子 忠兼、弥右衛門、孫太夫、徳蔵、兼重、善兵衛、僧富永、左右田重次の妻、松井勘助の妻、西郷正実の妻、柴田弥五右衛門の妻、伊奈平十郎の妻、三宅武兵衛の妻、岩瀬弥五右衛門の妻[7]テンプレートを表示 富永 資広(とみなが すけひろ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。 富永氏は三河国幡豆郡室城の城主で、同国の名家・吉良氏譜代の家臣[8]。資広は東条城主の吉良義昭に仕えた。永禄4年(1561年)善明堤の戦いでは松平好景の家臣で、武勇で知られた近藤弥右衛門を討ち取る殊功を挙げている[9]。 その後吉良氏が徳川家康に屈服するとこれに従い、同郡津平城主で東条松平家の家老を務めた松井忠次(松平康親)の配下となる[10][11]。元亀元年(1570年)織田信長への援軍として忠次らともに近江に出陣し、六角承禎の軍勢と戦っている(志賀の陣)。元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いの際には眼病のために従軍しなかったが、合戦に敗れて浜松城に逃げ戻った家康に問われ、敵軍は飯炊きの準備をしていないから城が攻められることはないだろうと述べて家康を感心させたという[12]。 その後、家康の嫡男・松平信康に気に入られて信康付きとなり、天正3年(1575年)長篠の戦いに従軍。同年の遠江小山城の戦いでは、撤退戦の戦術を献策して全軍撤退を成功させた。天正7年(1579年)信康が自害すると松平康親の元へ戻され、天正10年(1582年)からは康親や一族ととも駿河三枚橋城に在番した[12][11]。徳川氏の関東転封後の文禄4年(1595年)に没[1]。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 『士林泝洄』は養父の名を「資益」としている[3]。 出典 1 2 『士林泝洄』, p. 21. ↑ 『士林泝洄』, pp. 17–18. 1 2 3 4 『士林泝洄』, p. 19. ↑ 『西尾市史』, p. 189. ↑ 『士林泝洄』, pp. 21–22. ↑ 『士林泝洄』, p. 23. ↑ 『士林泝洄』, pp. -24. ↑ 『西尾市史』, p. 188. ↑ 『士林泝洄』, pp. 19–20. ↑ 『士林泝洄』, p. 20. 1 2 『石川正西聞見集』, p. 15. 1 2 『士林泝洄』, pp. 20–21. 参考文献 西尾市史編纂委員会 編『西尾市史』 2巻《古代中世 近世上》、1974年。 名古屋市教育委員会 編『士林泝洄』 3巻、名古屋市教育委員会〈名古屋叢書続編〉、1968年。 『石川正西聞見集』埼玉県立図書館〈埼玉県史料集〉、1968年。 Related Articles