寺本幸司

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出生名 寺本 幸司
別名 寺沢 耿(作家名)
生誕 (1938-08-06) 1938年8月6日
出身地 日本の旗 日本 東京都
寺本 幸司
基本情報
出生名 寺本 幸司
別名 寺沢 耿(作家名)
生誕 (1938-08-06) 1938年8月6日
出身地 日本の旗 日本 東京都
死没 (2025-09-05) 2025年9月5日(87歳没)
学歴 日本大学藝術学部文芸学科中退
職業 音楽プロデューサー著作家画家

寺本 幸司(てらもと ゆきじ、1938年8月6日 - 2025年9月5日[1])は、日本の音楽プロデューサー浅川マキ桑名正博りりィイルカ南正人下田逸郎てつ100%遠藤響子などを手がけた[2][3]。自身もアーティストとして、絵画作品や小説等を発表している。

東京の月島にある陶器店の息子として生まれる[2]芝中学校・高等学校日本大学芸術学部に入学[2]。大学3年生の頃から伴淳三郎のマネージャーを務めるが、3年ほどで退職[2]

1961年、(株)芸映に入社。1966年、日本初のインデペンデント・レーベル「アビオン・レコード」設立に参加[2][3]。この時、浅川マキと出逢う。

1967年南正人と出逢い、1971年、アルバム「回帰線」をリリース。

1968年、小澤惇、松村慶子音楽出版ジュン & ケイ(JUN & KEI MUSIC PUBLISHERS, INC.)を立ち上げ、同年12月、新宿アンダーグラウンド・シアター「蠍座」で、寺山修司構成演出で「浅川マキ深夜3日間ライブ」を成功させる。翌1969年シングル夜が明けたら』で、浅川マキをメジャーデビューさせ、30万枚のロングセールスを記録したアルバム浅川マキの世界』(1970年)に繋げた。

1969年、人気テレビ番組「ドキュメンタリー青春"新人狩り"」(テレビ東京)出演。

1970年浅川マキの宣伝キャンペーンで札幌を訪れた際、杏真理子と出逢い、1971年4月、シングル『さだめのように川は流れる』をリリース。

1972年、音楽工房モス・ファミリィ(株)を設立。1984年のイバラギ万博では、モス・エージェンシーの代表プロデューサーとして「茨城パビリオン」の運営に当たった。同年、ニューヨークから帰って来た下田逸郎のアルバム「飛ばない鳥 飛べない鳥」を制作。

1986年からは、社団法人 日本音楽制作者連盟(FMP)の理事として、芸団協・実演家隣接権センター(CPRA)に参加し、歌手アーティストの録音録画権の獲得整備、徴収分配等の広報業務にあたった。

1988年、水上土地建物の委嘱を受けて、ウォーターフロント有明に、エンタテインメント商業施設「MZA有明」をオープンさせ、クラブ・シアターには海外から多くの有名ミュージシャンを招聘した。1990年不動産企業パックスコーポレーションと組んで、新橋汐留にクラブ・シアター「サイカ(psycha)」をオープンさせ、海外からバンドを呼ぶなどして、時のクラブシーンに名を刻んだ。

その後は、後述のとおり、著作家としての活動へ重点を置いていたが、2010年に浅川マキが亡くなってからはMAYAや伊香桃子のアルバム制作へ至る。

2020年2月15日、「人は死ぬが、歌は死なない」をテーマに、金沢北國新聞赤羽ホールで「浅川マキ没後10年メモリアル コンサート」をプロデュース。2021年12月22日、浅川マキ リスペクトアルバム、伊香桃子「Good-bye ~浅川マキを抱きしめて~」をプロデュース[4]

2025年9月5日死去。85歳没[1]

プロデュースしたアーティスト

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プロデューサー以外の活動

私生活

脚注

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