対馬勝雄
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1915年(大正4年)春から青森師範学校附属尋常小学校に通い始め、成績優秀で3年から終業式の度に運動が優等として壇上に呼ばれたり、全科目の成績は10段階評価でほとんどが10であった[2]。勉強好きで本を好んでいたが家計のことを考えて買って欲しいと頼むことはなかった[2]。卒業式では総代となり、褒章に国漢文辞書を貰った[2]。
家計が良くないため父は一人息子を働かそうとしていたが対馬は旧制青森中学校(現青森県立青森高等学校)入学を懇願、担任教師もともに言ってくれて父は試験に落ちたら家業を手伝うことを条件になんとか聞いてもらい、対馬は合格、それでも父は受け入れようとしなかったが結局は母が息子の思いを叶えてと父に言ってくれた[3]。
家計のために親には言わずに仙台陸軍幼年学校への願書を送り、1922年(大正11年)2月に合格通知が届き、青森中学は中退、仙台陸軍幼年学校入学[4]。当時中学1年生であったがそれでの合格は珍しく、青森県最年少、新聞でも快挙と報じられた[5]。なお入学に際して普通の家である対馬家は学費全額を自分のところで賄わなければいけないことや身元保証のため一定の財産がないといけないとは思っていなかったが、地元住民や両親の馴染みの者から餞別があり、合計81円になった[5]。後に東京陸軍幼年学校に移り、それから陸軍士官学校入学[6]。
1927年(昭和2年)3月、陸軍士官学校予科卒業、歩兵第31連隊配属[7]。1928年(昭和3年)10月、東京に戻って本科に進む[7]。
1929年(昭和4年)1月、仙台の大岸頼好に会いに行き、日本の現状などを話し合い、大岸が発表した論考と思われるものも読み、彼に傾倒していく[8]。同年7月、陸軍士官学校本科卒業(第41期)、曹長、見習士官から同年10月に歩兵第31連隊に配属され少尉任官、連隊旗手となる[9]。
1931年(昭和6年)あたりから昭和維新運動に強く傾倒していき、東京の同志と呼応して同年7月に盛岡山形秋田の連隊にいる若手の少尉中尉に革新派将校に加われるかどうかを尋ねた[10]。同年8月、実態は国家主義者の結集を目標とした郷詩会の集会に参加、そのときは組織固めの段階でいいと明確に道筋は決まっておらず、急進的な部類だった対馬はこのまま帰れということかと会に来ていた末松太平を見て言った[11]。この直後、対馬は満蒙問題で陸海軍は合同せよという文書を刷り、全艦隊へ送ろうと井上日召の家に見せに行ったが、そのときいた藤井斉が菅波三郎の家に滞在していた対馬の同志たちを説得して止めている[12]。これは藤井が陸軍を信じず、政権転覆とは別の直接的な蹶起を考えており、その前に海軍の名が漏れることを考えたためとみられる[13]。対馬は同年の十月事件に参加しようと同志とともに上京したこともある[14]。
同年11月、混成第四旅団の一員として満洲出征、第七中隊小隊長[15]。同旅団は4か月ほど大した戦闘はなかったが1932年(昭和7年)3月、荘河へ治安維持のため出動命令が出され、翌4月まで3週間ほどの間に5回戦闘があり、複数回、匪賊を壊滅や敗走させた[16]。同年、五・一五事件発生、対馬は事件関係者として取り調べの証拠資料で名を挙げられており、実家に憲兵が来るような要注意人物となっていた[17]。同旅団の一員の末松に内地に潜行しないかと強く勧誘、同じ第31連隊の野村三郎が先の事件に関わっていたこともあったためだが、末松は満洲の同志に事件蹶起者の減刑嘆願や義援金を募って事件の意義をわかるようにしようと言い、対馬にはなんとか受け入れてもらった[18]。同年10月、中尉昇進[19]。
旅団で山砲小隊長を務めた後の1933年(昭和8年)1月、山海関で関東軍と何柱国率いる中国軍が衝突、出動した混成第四旅団は初めて大規模な戦闘を行い、乗馬小隊長だった対馬は敵の退路を断つ任に当たった[20]。それから熱河作戦などにも出動した[21]。出征中、戦死した部下の数だけ匪賊を斬首したという[22]。
1934年(昭和9年)1月、古北口の国境警備中に豊橋陸軍教導学校配属の命があり、帰還、教官に任ぜられる[23]。同年12月、父が軍人だったとき、上官だった陸軍少佐、松永正義の娘と結婚[24]。対馬は連隊長から縁談話がもたらされ、30歳になるまで結婚しないつもりだったことから相手方に自分の悪いところ列挙したものを書いて向こうに届けたが、松永夫妻は対馬をいたく気に入っており彼が届けたものを読んだ上でより気に入ったのであった[25]。相手女性は自分の父から急に婿候補と会わせると電報が届き、同年11月、忙しなく見合いが行われた[25][26]。対馬は相手女性に絶対服従を結婚の条件に出すと相手女性は受け入れると言ったため、見合いをした日の夜に結婚を決意した[27]。父を通じた縁で結婚したが、松永家は対馬が要注意人物であることは知らなかった[26]。
1935年(昭和10年)8月、陸軍大学校試験初審を受け、通過[28]。しかし試験再審不合格、相沢事件犯人の相沢三郎に対する嘆願書で対馬の名があり、連名したということになったからであった[29]。
1936年(昭和11年)1月、長男誕生[30]。翌2月になると妻の軽口に乗らなくなり、自分が死んでも各地の同期生が助けてくれると言っていた[31]。同月12日付で教育総監渡辺錠太郎に対して不穏当な書信を出したことで謹慎10日の処分を受ける[32]。渡辺との考えの違いについて豊橋陸軍教導学校の校長や中隊長と相反したこともあり陸軍大学校へ入ることは叶わなくなってしまった[32]。
同月、二・二六事件で豊橋から近いことから同陸軍教導学校の生徒らとともに西園寺公望を標的として静岡県庵原郡興津町にある別邸坐漁荘を襲撃する役割を任されるも、同僚の説得が上手く行かず、最終的に断念[33]。事件では当日、首相官邸を襲撃[34]。これにより免本官[35]、従七位返上を命じられ、勲六等単光旭日章、功五級金鵄勲章及び昭和六年乃至九年事変従軍記章を褫奪された[36][37]。事件後、同居の親戚が死去した際、妻が自殺したという誤報が流れたことがあった[22]。当初、妻はなんとなく事件のことは気付いており、妻の父は娘に夫は事件に関与していないと言っており妻も信じていたが、夢で夫が血のついた刀を掲げて、今から自首すると言い、子の顔を覗き込んでからその場を去る夢を見たと言って親たちを泣き惑わせ、3月5日なって父から事件の話を聞かされた[30]。家族には同年7月5日夜、陸軍衛戍刑務所の看守が同日に事件で対馬に死刑判決が出たことを知らせに来ている[38]。
対馬らに死刑判決が出たと世間に発表された7月7日から妻の両親たちは毎日、拘置されている衛戍刑務所に面会に来ていた[39]。同月11日の面会を終えて外に出ると、通りかかった刑務所に入る車の中に×印の襷をして黒系の服を来た軍人と思われる者たちが姿勢良く乗っており、家族は銃殺隊なのではと思い、刑務所の控え室にいる人に伝えてかなり騒ぎとなり、執行は明日ではないかと考え、差し入れをした[40]。翌12日、対馬は銃殺刑に処された[34]。12日は日曜日で休みなため面会はできないと言われていたが、その日の朝、対馬の姉の借家にいた母は軍服の息子が枕元に立って自分を見つめていたという[41]。それからそう経たない同日午前8時頃に憲兵が対馬の死刑執行を伝えに来た[42]。戒名は義忠院心誉清徳勝雄居士[43]。対馬は事件に許しが出れば家で赤飯を炊いて祝うように言っていたが、それが行われることはなかった[44]。遺族が骨箱を実家に持って帰る列車や途中の駅には憲兵が配置、列車からの降車は最後にさせられ、通夜と告別式にも憲兵や特別高等警察が監視、弔問に来た人を問い質したり追っ払ってもいた[45]。対馬の墓は青森市の正覚寺に作られて卒塔婆はあったものの、墓石を建てることは軍によって禁止され、戦後の1952年(昭和27年)、同寺の墓地が市内に新しく建造された三内霊園に移されたのを機に墓石が建てられた[46]。