小島朋之
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1962年 福岡県立修猷館高等学校卒業、1967年 慶應義塾大学法学部政治学科卒業、1969年 同大学院法学研究科政治学専攻修士課程修了。1972年 カリフォルニア大学バークレー校歴史学部博士課程 (Ph.D Candidate) 修了。1973年 慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程単位満期取得退学。1984年 法学博士(慶應義塾大学、学位論文『中国共産党の大衆路線 : 大衆運動をめぐる毛沢東の政治指導、中央および地方の政治動態』)
1974年-1975年、在香港日本領事館外務省特別研究員、1975年同職を退官し、京都外国語大学助教授に就任。1982年同大学退職、京都産業大学法学部教授。1984年-1985年 在北京日本大使館専門調査員(在外派遣・兼任)。1991年同大学退職、慶應義塾大学総合政策学部教授[3]。2000年、『現代中国の政治 その理論と実践』で第16回大平正芳記念賞受賞[4]。2001年-2007年 同学部長[3]、同大学院政策・メディア研究科長。
2008年3月4日 慶應義塾大学病院にて脳腫瘍のため入院治療していたが死去(64歳没)
長く現代中国に関する時事分析を行なったことで知られ、2006年からは日中歴史共同研究の日本側委員を務めた[3]。また、1997年10月からアジア政経学会第15代理事長(- 1999年)を務めた[2]。
2002年の李登輝訪日中止への関与
2002年、慶應義塾大学の学術系サークルである経済新人会が、三田祭において李登輝・前台湾総統の講演会を企画した。櫻井よしこによると、小島は『産経新聞』(2002年10月2日)が講演予定を報じた2日後の2002年10月4日、李に訪日の再考を促すメールを送付した[5]。
金美齢は、「小島教授は、事前の連絡が皆無、準備期間もなく困惑、自分と国分(良成)教授の面子が失われると書いて、せっかくの、学生たちによる李前総統への招待を退けようとしたのです」と述べ、小島の行動を非難した[5]。これに対し小島は、「通知のなかったことは、従前の李前総統と私の交流の実績からみて遺憾で、私の面子は失われた」「時間的に今回は準備が困難」「ゆえに訪日は再考してほしい」「将来のことなら時間をかけて準備、歓迎したい」の4点を李側に伝えたとし、金がメールの内容を公表したことを非難した[5]。
李登輝の代理人によれば、小島・国分側から、李を説得するため2人で訪台する旨が伝えられたが、李は「後ろ向きの説得なら会わない」として、面会を断った[5]。