岑参
From Wikipedia, the free encyclopedia
*幼少期
開元三年(715年)に仙州(河南省葉県)に生まれる。父の岑植が仙州の刺史であった。
開元八年(720年)岑参が6歳の時、父親は晋州(山西省臨汾県)刺史となり、岑参も父親に従って晋州に赴いたと思われる。父親は岑参が10歳のころに亡くなったとされる。その後、開元十七年(729年)、岑参15歳の時に、一家は嵩山の太室(河南省登封県)に移っている。そうして次の年、一家は更に太室から西南約70里のところにある少室(潁陽県)に移った。このころ、家は貧しく、岑参は主に兄について経史の学問を受け、官吏になる準備をしていた。
*仕官前
少室の地で数年を過ごした後、開元二十二年(734年)20歳になった岑参は、初めて洛陽に赴き、文章を朝廷に献じた(この年、玄宗は洛陽にいた)。そのころ、「献書拜官」つまり仕官を願う者は文章を朝廷に献じ、朝廷ではそれを審査して優秀な者は官に取り立てるという、科挙の試験とは別のコースの登用法があり、岑参もそれに応募したのだが、結果は落第であった。その後、三十歳で進士の試験に合格するまでの10年間、彼は仕官を求めて長安、洛陽にたびたび出ていくことになる。なお、25歳の頃から、河朔、大梁、その他の土地に、しばしば旅をして見聞を広めている。
*進士及第
天宝三載(744年)、30歳の時に進士の試験に第二位で及第した岑参は、右内率府兵曹参軍を授けられた。右内率府は左内率府とともに東宮の役所で、太子の侍従と、そのための武器の管理を担当していた。兵曹参軍はそこの属官で官位は正九品下。職務内容は、「文武の官、及び千牛備身(太子の宿衛侍従の官)に関する簿書およびその勲階・考課・仮使・俸禄のことを掌る」(『大唐六典』による)というものであった。
*初めての辺塞(安西)へ
天宝八載(749年)に安西四鎮節度使の高仙芝が入朝し、岑参を節度使の幕僚とすべく上表して許可を願い出た。時に岑参は、自身の地位の低さに就任当初から不満であり、そのために西域勤務を希望していたと思われる。高仙芝の幕府には右威衛(ういえい)録事参軍・掌書記として迎えられた。『新唐書』百官志によれば、節度使の属官には、上から「副大使知節度事(ちせつどじ)、行軍司馬、副使、判官、支使、掌書記、巡官、衙衛」各一人があった。したがって、掌書記という地位は、まだ下の方であったが、岑参としては、このまま長安にいても昇進は望めないと判断して、塞外の地に活路を見出そうとしたようである。なお、安西都護府は亀滋(今の新疆ウイグル自治区の庫車)に在り、長安からは2か月以上もかかる、まさに天涯の地であった。
*長安へ戻る
天宝十一載(752年)、岑参は38歳。北庭に赴くまでの二年余りを、長安で過ごす。西域から帰れば何か職があるのではないかと、岑参は考えていたのかもしれないが、それは甘い期待であった。そのため岑参は仏門に入ることを想い、また隠遁を考えている。この時期の詩は30首あまり残されているが、その多くは送別会などの会合での作であり、おそらく彼はそれらの会に集まってくる士人たちを通して、仕官のための手がかりを得ようと思われるが、しかし期待は空しく、中央での官職は得られず、彼は再び西域に向かうことになる。
*再び辺塞(北庭)へ
天宝十三載(753年)、安西四鎮節度使の封常清が入朝して、北庭都護・伊西都護・瀚海軍使を兼任することになり、岑参は安西・北庭節度判官としてその幕下に加わった。安西都護府に勤務していた時は掌書記であったから、それよりも二階級上の官職である。その後さらに判官の上の副使(支度副使)に昇進している。
北庭都護府は庭州、今の新疆ウイグル自治区迪化県にあった。岑参は5月ごろに長安を出発して北庭に赴任して行った。赴任後しばらくして、岑参は庭州から輪台に移る。輪台は庭州に属する県で都護府のある庭州の西、約120キロのところにあった。彼の勤務する役所が輪台にあったものと思われる。以後、岑参は、ここを中心として各地に出向いて判官の仕事に従事している。
*長安へ戻る
天宝十四載(755年)11月、安禄山が叛乱を起こしたため、封常清は北庭から入朝し、そのまま留まって賊を防いだ。至徳二年(757年)の2月、粛宗は鳳翔に至り、長安奪回の機をうかがっていた。岑参はそのころ鳳翔の行在に至り、6月に杜甫等の推薦によって右補闕を授けられ、10月に粛宗に従って長安に帰った。
至徳二年(757年)9月、官軍は長安に入城した。長安が胡賊のものになってから、まさに1年3か月ぶりだった。次いで10月には洛陽も奪還され、賊の総帥の安慶緒は鄴城(河南省安陽)に逃れた。粛宗は洛陽奪還の翌日、鳳翔を出発し、長安に帰り、岑参も粛宗に従って懐かしい長安に帰ってきた。岑参は乾元二年(759年)、3月に起居舍人(中書省に属し、從品上。天子の側に侍して其の言行を記録する官)に昇進した。
*虢州長史
起居舍人に昇進してわずか1か月後の4月には、長安と洛陽の中間あたりにある虢州の長史に任じられ、5月に赴任した。その後、3年ほどこの地で過ごす。
*潼關勤務
宝応元年(762年)、48歳の春、岑参は太子中允・殿中侍御史・関西節度判官に改められた。勤務地は潼關であった。10月には、雍王の史朝義討伐に従って陝州に在った。
*長安へ戻る
広徳元年(763年)、岑参は正月に入京して御史台にしばらく勤務したのち、秋に祠部員外郎に任じられた。翌年には孝功員外郎に改められ、その後、虞部郎中に転じる。永泰元年(765年)春、屯田郎中に改められ、その後庫部郎中に転じた。
*嘉州刺史になるも赴任できず
永泰元年(765年)、岑参は51歳。11月、嘉州刺史となる。嘉州は成都の南方、岷江が長江に合流するあたりに在った。しかし岑参は蜀中の乱のため、梁州(今の陝西省南西の漢中)まで行ったが、引き返す。蜀中の乱は、剣南節度使の郭英乂(かくえいがい)がその検校西川兵馬使崔旰に殺され、邛州(きょうしゅう)の柏茂林、剣南の李昌巎(りしょうどう)らが、崔旰討伐のために起兵したものであった。
翌大暦元年(766年)、杜鴻漸が剣南西川節度使となり、崔旰を成都尹、西川節度行軍司馬とすることで、蜀の乱は一応は治まった。杜鴻漸は岑参を表して職方郎中兼侍御史として幕府に入れ、ともに蜀に入った。岑参は4月に蜀に入り、6月に剣門を過ぎ、7月に成都に至る。しかし内乱が続いているために嘉州に赴任することはできず、翌年の6月ごろまで成都に滞在している。
*嘉州刺史~晩年
大暦二年(767年)、4月になって蜀の内乱が平息し、岑参は同年6月に嘉州刺史の任に赴く。
大暦三年(768年)、54歳の岑参は7月、官を辞めて東歸せんとするも、途中、戎州と瀘州の間で群盗に阻まれ、成都に引き返して滞在する。その後、路を北に変えたが、結局成都に客居。翌年の歳末、成都に没した。
詩人としての彼
戦地にあること十余年、その詩は悲憤慷慨するところあり、「識度清遠、議論雅正」と同時代人に評せられる。著に『岑嘉州集』7巻がある。岑参死後30年に子の岑佐公が遺文を收集し、杜確が『岑嘉州詩集』8卷を編修した。403首が現存し70余首が辺塞詩、「感旧賦」一篇と「招北客文」一篇が墓碑銘である。
| 胡笳曲送顔真卿使赴隴西 | |
| 君不聞胡笳聲最悲 | 君聞かずや胡笳の声 最も悲しきを |
| 紫髯緑眼胡人吹 | 紫髯緑眼胡人吹く |
| 吹之一曲猶未了 | 之を吹く一曲猶未だ了らず |
| 愁殺楼蘭征戍児 | 愁殺す 楼蘭征戍の児 |
| 涼秋八月蕭關道 | 涼秋八月蕭関の道 |
| 北風吹断天山草 | 北風吹断す 天山の草 |
| 崑崙山南月欲斜 | 崑崙の山南にて 月は斜めならんと欲す |
| 胡人向月吹胡笳 | 胡人月に向かって胡笳を吹く |
| 胡笳怨兮将送君 | 胡笳の怨みまさに君を送らんとす |
| 秦山遙望隴山雲 | 秦山遙かに望む 隴山の雲 |
| 邊城夜夜多愁夢 | 邊城夜夜 愁夢多し |
| 向月胡笳誰喜聞 | 月に向かって胡笳 誰か聞くを喜ばん |