岩下壮一

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岩下壮一
カトリック司祭
教会 カトリック教会
個人情報
別名 フランシスコ・ザベリオ(洗礼名)
出生 1889年9月18日
日本の旗 日本東京府東京市京橋区采女町(現・東京都中央区)銀座五丁目)
死去 1940年12月3日 (52歳)
両親 岩下清周(父)
職業 哲学者・カトリック司祭
出身校 東京帝国大学
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岩下 壮一(いわした そういち、1889年9月18日 - 1940年12月3日)は、日本カトリック司祭神学者哲学者大正から昭和初期の日本カトリック教会の精神的指導者と言われる。日本における中世哲学スコラ哲学研究の第一人者でもある。

早年期

1889年9月18日、父・清周、母・幽香子の間に東京府東京市京橋区采女町、現在の東京都中央区銀座五丁目に生まれる。同年、清周が三井から独立して品川電燈会社を設立した折に、一家は芝区高輪南町(現・港区高輪周辺)に移る。

小学校に入る前、壮一は関節炎を患い、右足に障害を負った。多方面にわたって産業家として活躍した清周は、壮一を「ボストンの工科学校」(マサチューセッツ工科大学)あたりに留学させてエンジニアに育てる予定であったが、身体障害により「米国の学校にやられずに済んだ」[1]。壮一はエンジニアにはならなかったものの、技術屋の性格を持ち、機械いじりや(当時としては珍しい)車の運転もこなした。

1897年、飯倉小学校[2]二年に入学。1899年、暁星小学校に編入。1900年、特別進級が認められて暁星小学校を卒業し、中学部(旧制暁星中学校、現・暁星高等学校)に進学。中学二年の1901年11月1日、カトリックの洗礼を受ける。洗礼名は「フランシスコ・ザベリオ」。代父は暁星の先輩で5歳年上の山本三郎(海軍少将山本信次郎の弟)で、彼は後に壮一の妹雅子と結婚[3]。暁星学園在学時にはエック師(エミール・エック)に"petit souichi"として可愛がられた。寄宿生として外国人教師と親交を結んだため、中学時代にはすでに英語とフランス語を習得していた。

1905年、第一高等学校文科を受験して合格したが、所要年齢に満たなかったため、新渡戸稲造校長から1年間待つように頼まれて入学までの1年間を別荘での療養生活にあてた。

第一高等学校

1906年(明治39年)、第一高等学校一部英文科(後の文科甲類)入学。英法英文科の同級生に和辻哲郎戸田貞三、他科の学友に天野貞祐児島喜久雄など。

英仏語は暁星中学時代に完成していたため、第二外国語としてドイツ語を学んだほか、ラテン語・ギリシア語も自習していた。ドイツ語教授岩元禎と親しく交流し、「学問に対する真剣な態度」を教わる。いわゆる「一高型」のバンカラ学生ではなく、非常に端正な生活を送る上品な学生であった。一高時代に戸塚文卿らと組織したカトリック研究会からは、日本最初の聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会フランス語版公教青年会(第二次)が生まれている。

大学進学の三ヶ月前、哲学科への進学を決める。このことについて書簡で「常に誠意神に対すれば、なすべきとは、その折々にわかるものにて候」と振り返っており、祈りの結果として哲学科に進んだことが示唆されている。哲学科に進むにあたって、岩元教授よりラファエル・フォン・ケーベルに就くよう助言される。

東京帝国大学

1909年東京帝国大学文科大学哲学科入学。ラファエル・フォン・ケーベルに師事する。同じくカトリックのケーベルとは流暢なフランス語で会話し、「ビッコの悪魔」や「ビッコのおしゃべり」という綽名で呼びかけられた。父・清周は実業に一切関係ないとして壮一の哲学科進学に猛反対したが、社会学も学ぶという条件付きで許可された(当時社会学科は独立しておらず、哲学科社会学専攻であった)。このような経緯から社会学者の戸田貞三とは生涯親しくした。また、哲学科の同級生である九鬼周造は家が近かったためともに通学する仲であった。一高、東大哲学科の後輩近衛文麿とも面識があったとされる。

1912年、哲学科を最優秀で卒業。卒業論文は「アウグスティヌス之歴史哲学」(フランス語で執筆)。いわゆる銀時計組である。

卒業の数日前、文学部長の上田萬年がエック師を呼び出し、岩下を「ほんとに頭のいゝ学生ですね」と称賛したうえで、東大に「中世スコラ哲学講座」を新設し、教授として迎えることを約束した。しかし、岩下はその提案を断り、大学院に進学した。

大学院ではいくつかの哲学的問題を研究すると同時にラテン語の学習に専念したが、次第に信仰に関する問題を抱えるようになる。大学院の第二学年の終わり頃、司祭になりたい旨をジャン・ピエール・レイ東京大司教に相談している。

1914年から欧州に留学する予定であったが、父の汚職事件(北浜銀行事件)により延期となる。後、父の葬儀の場では、「一身を擲って進んで其の罪を贖ひたいと存じます」と発言している。

哲学教授と欧州遊学

大学院修了後の1915年第七高等学校造士館教授英語)となる[4]。帝国大学でのポストが約束されていたにもかかわらず地方の高等学校に赴任したのには諸説ある。なお、前述の岩元教授は弟子に「大学を卒業したら地方の高等学校へ行って、黙って十年間勉強しろ」と命じており、たとえば弟弟子の三谷隆正は生涯高等学校にとどまっている。

第一次世界大戦の終戦後の1919年文部省派遣留学生として欧州に出発(ただし、帰国後に拘束されることを嫌い自費で留学)。

パリ、ルーヴァンなどで哲学及び神学を学んだ。山本信次郎の紹介で会った「マテオ神父」(マテオ・クロウリー・ブーヴィ)から強い影響を受けたとされる。フランスの哲学者モーリス・ブロンデルや文学研究者アンリ・ブレモン英語版などと出会い、特にイギリスのカトリック思想家フリードリッヒ・フォン・ヒューゲル英語版とは深い親交を結んだ[5]

1921年にイギリスのウェストミンスター大司教区(カトリック)の神学校セント・エドマンド・カレッジ英語版に入る。 1922年にローマに移り、ドミニコ会神学大学アンジェリクム(現在、教皇庁立聖トマス・アクィナス大学)等で神学を修めた後、1925年ヴェネツィアでヴェネツィア総大司教ピエトロ・ラ・フォンテーヌ英語版によりカトリック司祭叙階されて帰国した[6]

カトリック司祭として

青年たちに対する宣教司牧、学究、出版、ハンセン病患者の福祉などに尽力した。

帰国直後に、東京の自宅でカトリックの出版や講座開設のためにカトリック研究社を設立し、聖フィリポ寮を開設した[7]

東京での活動のほか、父清周の創設した温情舎小学校の校長・理事長なども務めた。

1930年にはハンセン病療養施設神山復生病院6代目院長に就任し、病院を財団法人とした[8]。院長として、病院施設の近代化や医療体制の整備などに尽力した[9]。同じく救らい事業に尽力した貞明皇后には、崇敬の念を抱いていた。

1934年には聖フィリポ寮を信濃町に新築して、財団法人とした(これが現在の真生会館の始まり[10])。初代の寮監は吉満義彦が務めた(のちに作家遠藤周作が入寮していたことも知られている)[11]。同年2月15日から3月3日にかけて、ハワイ準州モロカイ島を中心に巡り、ハンセン病施設を視察するとともに、ハンセン病患者の看護に尽くしたダミアン神父の事跡を踏査した[12]

1936年、信仰弘布会日本代表委員に就任した[8]

1938年には、日本カトリック新聞社顧問となり、雑誌『カトリック』(後の『カトリック研究』)3月号より編集長に就任した[8]。全国教区長会議の結果、同年4月から日本カトリック新聞社の経営に従事することとなった。雑誌『声』5月号より編集長に就任した。1939年11月、日本カトリック新聞社関係を辞任。

1940年9月、神山復生病院院長を辞任し、同財団法人の理事長に就任[8]興亜院の要請を受けて、同年10月8日より秘書担当の小林珍雄と共に華北地方(北京天津済南青島)を視察するが、旅行中に発病[13]。同年11月11日に帰国し、神山復生病院に帰還するも、12月3日に腹膜炎にて死去した[14]

墓所はカトリック府中墓地(東京都府中市)内の東京大司教区司祭の共同墓地。ほかに、不二聖心女子学院中学校・高等学校内の岩下家の墓所にも墓碑があり、神山復生病院内の墓地にも分骨されている[15]

家族

父・岩下清周は、北浜銀行(破綻後は、三十四銀行三和銀行頭取箕面有馬電気軌道(現:阪急阪神ホールディングス)、大阪電気軌道(現:近畿日本鉄道)の元社長を務め、温情舎小学校(現・不二聖心女子学院中学校・高等学校)を設立[16]した聖公会信徒。

母・幽香子は華族出身でカトリック信者。

末妹・亀代聖心会の最初の日本人修道女であった。壮一が1925年にヴァチカンにて司祭叙階されたほぼ同時期に亀代はローマで終生誓願を立てている。

著作

  • 愛と理性と戦争 加持力教会と徴兵忌避事件』カトリック研究社、1926年。
  • アウグスチヌス 神の国岩波書店〈大思想文庫6〉、1935年。復刊1985年。
  • 『信仰の遺産』岩波書店、1941年。復刊1982年。
  • 『中世哲学思想史研究』岩波書店、1942年。復刊1969年・1993年他。オンデマンド版2015年。
  • 『カトリックの信仰』1947-1949年。
    • 『カトリックの信仰 第2 公教要理第1部解説』ソフィア書院、1947年。各・文庫判。
    • 『カトリックの信仰 第3 御托身 公教要理第1部解説』ソフィア書院、1947年、同
    • 『カトリックの信仰 第4 公教要理第1部解説』ソフィア書院、1948年、同
    • 『カトリックの信仰 公教要理第1部解説』ソフィア書院、1949年。合本。
    • 『カトリックの信仰』稲垣良典校訂・解説、講談社学術文庫、1994年6月。ちくま学芸文庫、2015年7月。
  • 『キリストに倣ひて』中央出版社 、1948年。
  • 『黙想の栞り』ソフィア書院、1950年。
  • 『岩下壮一全集』(中央出版社)
    • 第1・2・3巻 神学入門(1961-64年) - 上記『カトリックの信仰』と重複。
    • 第4巻 信仰の遺産(改訂版)(1962年) - 上記『信仰の遺産』と重複。
    • 第5巻 教父研究(1962年)
    • 第6巻 中世思想(1962年) - 上記『中世哲学思想史研究』と重複。
    • 第7巻 哲学論集(1962年)
    • 第8巻 救ライ五十年苦闘史(1962年)
    • 第9巻 随筆集(1962年)
    • 別冊として下記『岩下神父の生涯』(小林珍雄著)
  • 『岩下壮一選集』全1巻、春秋社、1969年。

翻訳

伝記研究

  • 小林珍雄 『岩下神父の生涯』(岩下壮一全集 別冊)(中央出版社 1961年/復刻:大空社 1988年)大空社
  • 重兼芳子 『闇をてらす足おと - 岩下壮一と神山復生病院物語』(春秋社 1986年、新版1999年)
  • モニック 原山 『キリストに倣いて - 岩下壮一神父永遠の面影』(学苑社 1991年)
  • モニック 原山 『続 キリストに倣いて - 岩下神父、マザー亀代子、シスター愛子の追憶』(学苑社 1993年)
  • 小坂井澄 『人間の分際 神父・岩下壮一』(聖母の騎士社・聖母文庫 1996年) ISBN 978-4-88216-141-7
  • 末永航「闘う神父 岩下壮一」- 『イタリア、旅する心 - 大正教養世代のみた都市と文化』(青弓社 2005年) ISBN 978-4-905497-30-1
  • 輪倉一広『司祭平服(スータン)と癩菌 - 岩下壮一の生涯と救癩思想』(吉田書店 2015年) ISBN 978-4-905497-30-1
  • 加藤和哉『岩下壮一留学交遊録(1)」『宗教と文化』40(聖心女子大学キリスト教文化研究所紀要 2024年)ISSN 0386-7005
  • 『岩下壮一留学日記(1)〜旅立ちからマルセイユまで〜(1919(大正8)年8月24日〜10月14日)』『宗教と文化』41(聖心女子大学キリスト教文化研究所紀要 2025年)

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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