島崎稔

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島崎 稔(しまざき みのる、1924年 - 1989年5月)は、日本の社会学者中央大学文学部教授。妻は経済学者島崎美代子

日本の村落社会学・地域社会学の重鎮[1]。「日本のマルクス主義的農村社会学の理論的指導者」[2]。社会調査論の専門家でもあった[3]

東京生まれ。実家の家業は指物師。1945年3月旧制第二高等学校文科卒業[1]西域シルクロードの美学を学ぶため京都大学文学部哲学科(美学美術史講座)に入学[4]。すぐに陸軍に徴兵され、千葉県で敗戦を迎えた。敗戦後も憲兵としてしばらく軍隊に所属した。1945年10月に復員、京都大学を退学[1]。戦争直後で家を離れて生活できず[4]、美学で生計を立てられる可能性が小さいという経済上の問題のため[1]、また社会主義を学ぶため、1946年東京大学文学部哲学科社会学専修科に入学[4]。芸術社会学に関心を持ち、マルクス主義社会学やマックス・ヴェーバーの『音楽社会学』、蔵内数太の『文化社会学』などを読む。のクラブである赤門宝生会に所属。1949年3月東京大学卒業。卒業論文は尾高邦雄の指導の下に書かれた日本の家元制度の研究「能楽社会の構造――座の集団性と家元講座」[1]。同時期に初の論文「能・狂言――その社会学的研究の分野」(『文学』第17巻第4号、1949年4月)を発表[4]。卒業論文を基にした「芸能社会と家元制度――流派に於ける師弟結合の特質(上・下)」は『社会学評論』(第3巻第4号、1953年/第4巻第1・2号、1954年)に「資料」として掲載され、有賀喜左衛門西山松之助などから注目されたとされる[1]。この時期まではアメリカ社会学やヴェーバーを方法論とした[4]

学部卒業後は東京大学大学院に在籍しつつ、西尾実の紹介で国立国語研究所に3年間勤務。「言語生活に関する調査」に参加し、調査技術を習得[4]。以降、亡くなる前年の1988年まで毎年のように社会調査を行った[3]。1952年東京大学大学院修了。福武直の紹介で高崎市立短期大学に専任講師として赴任。高崎市立短期大学で「『資本論』研究会」に所属し、マルクス主義を方法論とするようになった。研究会のメンバーにはのちに伴侶となる石本美代子(島崎美代子)もいた[1]。1954年から1955年に群馬県碓氷郡安中町に立地する東邦亜鉛安中製錬所の社会的影響に関する調査を行い[4]、鉱害問題と労働争議を分析した[3]。安中調査は学生らが安中製錬所に勤務していたこと、同僚の高橋洸と関心を共有したことを契機に始め[5]、尾高・福武を中心とする日本人文科学会の「近代技術の社会的影響」調査に組み入れられた[4]。日本人文科学会編『近代鉱工業と地域社会の展開』(東京大学出版会、1955年)に収録された報告書は「社会学の手法を用いて公害を研究した戦後最初の仕事」といわれる[5]。安中調査を契機に福武直とのつながりを強め、農村社会を研究対象とした[1]長幸男によると、内田義彦らが山田盛太郎を学長にして高崎市立短期大学を4年制の大学にしようとしたが、学内騒動になってそのプランが潰れ、東京から来ていた大石眞三郎内藤則邦松浦高嶺、島崎稔、石本美代子(島崎美代子)、高橋洸、長幸男らは東京に引き上げたという[6]

1957年中央大学文学部講師、1966年教授[7]。60年代から都市社会研究も始め、レーニンの市場理論や山田盛太郎の日本資本主義分析を理論的バックボーンにするようになった。山田を中心に設立された土地制度史学会に積極的に関与した[1]。1958年から1960年に糸魚川市の依託で初の都市調査となる「糸魚川調査」を実施。1961年から1962年に酒田市労連の依託調査「酒田市政調査」に参加。糸魚川調査を踏まえ[3]、1962年に都市社会研究の集大成『現代日本の都市社会』(北川隆吉共編著、三一書房)を刊行[1]。1965年に農村分解論の実証や農基法農政の検証を目的とした農村調査の成果として『日本農村社会の構造と論理』(東京大学出版会)を刊行。1975年から1976年に安中公害裁判弁護団の委託で「安中公害調査」を実施し、原告側証人として出廷した[3]。1978年から1985年に重化学工業都市の典型例としての川崎市の総合調査を実施し、『重化学工業都市の構造分析』(安原茂共編、東京大学出版会、1987年)にまとめた[1][3]。1979年に主著の一つ『社会科学としての社会調査』(東京大学出版会)を刊行。1982年から1983年に世界野生生物基金日本委員会の依託で吉沢四郎大野晃川崎嘉元とともにイリオモテヤマネコの保護に関する「自然保護調査」を実施。1985年に再度世界野生生物基金日本委員会の依託で安原茂、吉沢四郎、大野晃とともにアマミノクロウサギの保護に関する「自然保護調査」を実施[3]

1989年5月、肺臓の病が急激に悪化し急逝。享年64歳[1]

著書

関連文献

出典

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