平村ペンリウク
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1833年(天保4年)、平取コタンにシュロクの長男として生まれ[1]、松浦武四郎『左留日誌』のなかにも名前が記されている。幼年の頃から勇敢で知られ、成長してからは同胞の苦難を救うためにしばしば北蝦夷地(樺太)に渡った[1]。
1876年(明治9年)、イギリス人宣教師のウォルター・デニングはペンリウクの家に来てアイヌ語を学んだという[2]。1878年(明治11年)、ハインリヒ・フォン・シーボルト次いでイギリス人の旅行者イザベラ・バードを迎え、バードはその滞在の思い出を紀行文に残した[3]。また、1879年(明治12年)、平取コタンを訪問したイギリス人宣教師ジョン・バチェラーにアイヌ語を教えている[4]。
1880年(明治13年)、現在の平取町立平取小学校の前身である佐瑠太学校・平取分校の設置に尽力し、アイヌの子弟を就学させた[5]。1887年(明治20年)には当時の北海道庁長官の岩村通俊に呼ばれて、アイヌの現状を語っている[1]。
1903年(明治36年)、71歳で亡くなったとき、その遺産は土地や馬を合わせて千円もあったという[1][注釈 1]。
平取町の義経神社の境内には「頌徳碑」が建立されている。
