康懐英
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経歴
はじめ勇猛果敢なことで朱瑾に仕えて列校となった。乾寧4年(897年)春、朱全忠は鄆州の朱瑄を平定すると、勝利に乗じて葛従周に命じて兗州を攻撃させた。ときに朱瑾は豊県と沛県のあいだで食糧を徴収しており、懐英が兗州に留まってその城を守っていた。葛従周の軍がやってくると、懐英は鄆州の失陥を聞いて、城を出て降伏した。ほどなく朱全忠により軍校に任じられた。光化元年(898年)秋、氏叔琮に従って襄州・漢州を討ち、懐英は一軍を率いて鄧州を攻め落とした。光化3年(900年)、河北の征討に従い、張存敬を補佐して幽州の劉守光の軍を易水の流域で破った。天復元年(901年)冬、朱全忠が軍を率いて昭宗を鳳翔府に迎えようとした。李茂貞の大将の符道昭が兵1万人あまりを率いて武功に駐屯し抗戦すると、朱全忠は諸軍に命じてこれを討たせた。懐英は先鋒をつとめて符道昭を破り、兵6000人あまりを捕らえて、馬2000頭を鹵獲した。懐英はその功績を朱全忠に称賛されて、駿馬や珍器を賜った[1][2]。
天復2年(902年)4月、符道昭が再び軍を率いて虢県の漠谷に駐屯し、険阻なところに寨を建築した。懐英は朱全忠の命を受けて数千騎を率いてこれを急襲した。符道昭は懐英の兵が少ないのを見て、武装した兵士1万人を率いて、険しい谷間で挑戦してきた。懐英ははじめ1000騎を率いて夜間に戦っていたが、混戦になると、伏兵により符道昭の軍を破った。8月、鄜州の李周彝が三原に軍を駐屯させ、李茂貞の援軍となった。懐英は朱全忠の命を受けてこれを討ち、李周彝を敗走させ、梨園まで追撃した。翟州を攻め落とし、その刺史を捕らえて献上した。まもなく李茂貞の軍が奉天に駐屯すると、懐英は朱全忠の命を受けて李茂貞の軍の東北に寨を築き、敵軍に備えた。ある日の夕方、李茂貞の軍の襲撃を受けた。懐英は夜間にあっても諸軍を動揺させず、2000人あまりを率いて数万の敵軍に抗戦した。身体に十数か所の傷を負いながら奮戦して、李茂貞の軍を撃退した。天復3年(903年)、昭宗が長安に帰ると、懐英は迎鑾毅勇功臣の号を賜った。この年、淮南の楊行密が青州の王師範を援護するため、兵数万を派遣して宿州に進攻させた。懐英は朱全忠の命を受けて騎兵を率いて宿州を救援すると、淮南の軍を撃退した。そのまま懐英は権知宿州刺史となった。天祐3年(906年)冬、劉知俊を補佐して邠州・鳳翔府の軍5万を美原で破り、五十数寨を奪取し、勝利に乗じて軍を率いて鄜州を攻め落とした。功により陝州節度使に任じられた[3][2]。
開平元年(907年)、後梁の太祖(朱全忠)が即位すると、懐英は検校太保を加えられた。夏、太祖の命を受けて軍を率いて潞州を討つことになった。出立にあたって、太祖から勝利への強い期待を寄せられて懐英は恐縮した。6月、懐英は潞州に到着すると、半月のあいだ昼夜を分かたずあらゆる手段で城を攻め立てた。しかし晋将の周徳威の騎兵にたびたび襲撃され、懐英は戦いを避けるようになった。太祖は懐英を李思安と交代させ、懐英は行営都虞候に降格された。5月、晋王李存勗が大軍を率いて夾城を攻め落とした。懐英は開封府に逃げ帰り、銀台門を訪れて敗戦の罪が下されるのを待った。太祖はその罪を許し、懐英は右衛上将軍に任じられた。開平3年(909年)夏、侍衛諸軍都指揮使となった。ほどなく再び陝州節度使として出向し、西路行営副招討使を兼ねた[4][5]。
劉知俊が鳳翔府に亡命し、岐軍を率いて霊武の攻略を図った。懐英は太祖の命を受けて兵を率いて霊武を救援し、軍を長城嶺に宿営させた。劉知俊の迎撃を受けて、懐英は敗れて帰った。開平4年(910年)春、華州節度使に転じた。乾化2年(912年)秋、河中行営都招討使に任じられ、晋軍と白徑嶺で戦い、敗れて陝県に帰った。乾化3年(913年)、末帝朱友貞が即位すると、岐軍が秦州や雍州をたびたび侵犯した[6][5]。乾化4年(914年)、懐英は永平軍節度使・大安尹となり[7]、中書令を加えられた。貞明年間、大安府(長安)で死去した[6]。