式部寮
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式部寮(しきぶりょう)は、明治時代前期に置かれた官署である。式部局を改称して成立し、内外の儀式、図書、舎人、雅楽などに関する事務を管掌した。所管は太政官、宮内省、正院など明治初期の官制改編に応じて変遷し、1884年(明治17年)に式部職へ改称された。
古代律令制における式部省とは名称が類似するが、式部寮は明治政府の近代官制における官署である。宮中儀礼・国家儀礼に関わる官署であるとともに、雅楽史では、1870年(明治3年)に太政官内へ仮設置された雅楽局を引き継ぎ、式部寮雅楽課を置いた機関として重要である。式部寮雅楽課は、近世以来の三方楽所や紅葉山楽人を近代国家の儀礼制度のもとに再編し、のちの宮内省式部職雅楽部、さらに現在の宮内庁式部職楽部へつながる制度的系譜の中間段階に位置づけられる[1]。
式部寮は、明治初期の太政官制・宮内省制の変動のなかで設けられた官署である。辞典類では、1871年(明治4年)8月に式部局を改称したもの、または1872年(明治5年)に式部局を改めたものと説明され、1884年(明治17年)に式部職へ改称されたとされる[2]。
職掌は時期により変動したが、内外の儀式、図書、舎人、雅楽などに関わった[2]。宮内省所属期には、礼典、陵墓、叙任などの事務にも関係したとされる[2]。このため式部寮は、明治初期の宮廷儀礼、国家儀礼、宮内行政、舎人関係事務、雅楽制度の再編が交差する官署であった。
雅楽に関しては、式部寮雅楽課が、明治初期に設けられた雅楽局の後継部局となった。塚原康子は、明治政府にとって最初の音楽専門機関であった雅楽局が、のちの式部寮雅楽課、宮内省式部職楽部へ連なるものとして設置されたと位置づけている[3]。
沿革
式部局から式部寮へ
式部寮の前身は、明治初期に置かれた式部局である。式部局は、儀式や図書などに関わる官署であり、1871年(明治4年)8月に式部寮へ改称された[2]。国立国会図書館の「日本法令索引〔明治前期編〕」では、式部局・式部寮に関する法令が「宮内・式部」の分類に収められており、式部寮が明治前期官制上の独立した検討対象であることが確認できる[4]。
式部寮は、同時に廃局となった雅楽局・舎人局の役割を引き継いだ官署でもあった。舎人局は、明治初期の太政官に置かれた官署であり、宮中の雑使・宿直など、舎人に関する実務を扱った。1870年(明治3年)11月7日の太政官布告には、舎人局の直丁が宮中雑使を掌ることが示されており、1871年(明治4年)8月の官制改編によって、その役割は式部寮へ吸収された[5][6]。
雅楽制度との関係では、1870年(明治3年)11月7日に太政官内へ雅楽局が仮設置され、1871年(明治4年)8月10日に雅楽局が廃止されると、式部寮雅楽課が置かれた[7]。この改組により、近世以来の宮廷・社寺・楽所に分かれていた雅楽伝承は、明治政府の官制のなかで再編されることになった。
所管の変遷
式部寮は、明治初期の官制改革のなかで所管を変えた。辞典類では、太政官、宮内省、正院を経て再び宮内省に属したとされる[2]。塚原康子が整理した明治期の楽部官制の変遷によれば、1875年(明治8年)4月14日に式部寮は宮内省に属し、同年12月2日に正院に属し、1877年(明治10年)9月14日に再び宮内省に属した[7]。
この間、式部寮は儀式・礼典に関わる官署としてだけでなく、舎人関係の実務、雅楽伶人の処遇や雅楽課の組織改編にも関わった。1875年(明治8年)4月4日には式部寮の官等改正があり、雅楽関係では権中伶人・権少伶人が増置された[7]。
京都出張雅楽課の廃止
雅楽局以来の組織には、東京の雅楽稽古所とともに京都出張所・京都出張雅楽課があった。京都出張雅楽課は、京都に残る旧来の行事や楽人に対応する機能を担っていたが、1877年(明治10年)10月31日に廃止された[7]。同時に、大伶人以下の官名が廃され、伶人・伶員が置かれた[7]。
この改編は、雅楽制度を東京の宮内省系統に集約する動きであった。一方で、旧楽所の所在地に残った楽人たちは、地域の神社祭祀や儀礼に関わりながら奏楽活動を継続した。京都・奈良・大阪などに残った旧楽人の活動は、のちの地方雅楽団体や民間雅楽伝承の展開とも関係する[1]。
式部職への改称
1884年(明治17年)10月3日、式部寮は廃止され、式部職が置かれた[2][7]。雅楽関係では、雅楽長、雅楽師長、雅楽師副長、雅楽師、雅楽手、雅楽生などの官名が置かれた[7]。式部職はその後、宮内省において皇室の儀式・礼典・交際・雅楽に関わる部局となり、戦後の宮内庁にも式部職として継承された。
戦後の式部寮名称
式部寮の名称は、1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)5月まで再び用いられた[2]。その後の宮内庁では、式部職の名称が用いられている。
現在の宮内庁式部職は、儀式、外国交際、雅楽・洋楽などを担当する部局である。宮内庁の組織説明では、式部職に儀式を総括する式部副長と外事を総括する式部副長が置かれ、雅楽・洋楽は楽部が扱うとされる[8]。
職掌
式部寮の職掌は、内外の儀式、図書、舎人、雅楽などに及んだ[2]。また、宮内省所属期には礼典、陵墓、叙任などの事務にも関係した[2]。
儀式・礼典
式部寮は、宮中儀式や国家的儀礼に関わる事務を担った。宮内庁書陵部が紹介する宮内公文書館所蔵資料には、明治以降の宮内省・宮内府・宮内庁文書として「儀式録(式部寮)」が含まれており、式部寮が儀式記録と関係する官署であったことがうかがえる[9]。
明治政府において宮中儀式や国家的儀礼は、天皇を中心とする近代国家の制度形成と深く関わった。式部寮は、こうした儀礼の運営・記録・整備に関係する官署として、太政官制から宮内省制へ移行する過程に位置づけられる。
図書・舎人
式部寮は、図書や舎人に関する事務も扱った[2]。図書関係の職掌は、宮中・宮内官制における記録、文書、典籍の管理と関係するものであった。明治17年の式部職設置後、図書・記録関係の事務は宮内省内の別部局へ分化していった。
舎人関係の事務は、前身的官署である舎人局から引き継がれた。舎人局は、太政官に置かれた官署であり、直丁が宮中雑使を掌ったことが確認できる[6]。式部寮における舎人関係の職掌は、宮中の儀礼や行幸・行啓などを実務面で支える人的編成と結びつくものであった。
陵墓・叙任
宮内省所属期の式部寮は、礼典に加えて陵墓・叙任の事務にも関係したとされる[2]。陵墓関係の事務は、皇室祭祀・皇統意識・宮内行政と密接に関わる分野であり、のちの宮内省・宮内庁においては陵墓担当部局へと分化していく。
叙任関係の事務は、官制・位階・儀礼秩序に関わるものであり、式部寮が単なる儀式執行機関ではなく、明治国家の礼制秩序の形成にも関係する官署であったことを示している。
雅楽
雅楽は、式部寮の職掌のうち、後世への制度的連続性が明確な分野である。1871年(明治4年)8月10日、太政官内に置かれていた雅楽局が廃止され、式部寮雅楽課が置かれた。式部寮雅楽課は、近世以来の三方楽所や紅葉山楽人を近代官制のもとに再編した雅楽局の後継部局であり、伶人の教習、楽譜の整備、宮中行事での奏楽、西洋音楽の兼修、保育唱歌、万国博覧会への出品、公開演奏会などに関わった[10][7]。
日本芸術文化振興会の文化デジタルライブラリーは、現在の宮内庁式部職楽部について、1870年(明治3年)に京都・南都・天王寺の三方楽所と江戸の紅葉山楽人を統一し、太政官に設けた雅楽局に配属したことに始まると説明している[11]。式部寮雅楽課は、この雅楽局と後の式部職楽部をつなぐ中間的な制度であった。
後身機関
研究上の位置づけ
式部寮は、明治前期官制のなかでは短期間の官署であったが、宮中儀式・宮内行政・舎人関係事務・雅楽制度の再編を理解するうえで重要な位置を占める。とくに雅楽史では、近世の三方楽所・紅葉山楽人を近代国家の制度へ統合した雅楽局の後継機関として、また式部職楽部へ至る中間段階として位置づけられる。
塚原康子は、1878年(明治11年)前後の式部寮雅楽課について、音楽取調掛設置の前年にあたる時期に、国内で「音楽」という領域に最も近い先進的な部局であったと評価している[12]。この評価は、式部寮雅楽課を単なる雅楽保存部局ではなく、明治国家における音楽政策、儀礼制度、国際儀礼、教育唱歌、公開演奏、対外発信が交差する部局として捉える視点を示している。
また、舎人局の役割を引き継いだ点からは、式部寮は雅楽や儀式だけでなく、宮中雑使・宿直などの実務を含む人的編成を担った官署でもあった。式部寮は、明治初期に分立していた式部局・雅楽局・舎人局などの宮中関係事務を統合し、のちの式部職へ接続する制度上の中間段階として位置づけられる。