式部寮雅楽課
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式部寮雅楽課(しきぶりょうががくか)は、明治時代前期の式部寮に置かれた雅楽担当部局である。1871年(明治4年)8月10日、太政官内に仮設置されていた雅楽局を廃して置かれ、1884年(明治17年)10月3日に式部寮が式部職へ改組されるまで、宮中儀礼・国家儀礼における雅楽奏演、伶人の教習、楽譜整備、西洋音楽の兼修、保育唱歌・儀式唱歌への関与、万国博覧会への出品、公開演奏会などを担った[1][2]。
式部寮雅楽課は、近世以来の三方楽所や紅葉山楽人を近代官制のもとに統合した雅楽局の後継部局であり、のちの宮内省式部職雅楽部、宮内省式部職楽部、現在の宮内庁式部職楽部へつながる制度的系譜の中間段階に位置づけられる。塚原康子は、1878年(明治11年)前後の式部寮雅楽課について、音楽取調掛設置の前年にあたる時期に、国内で「音楽」という領域に最も近い先進的な部局であったと位置づけている[3]。
式部寮雅楽課は、明治初期の雅楽制度再編のなかで成立した官制上の雅楽部局である。前身である雅楽局は、1870年(明治3年)11月7日に太政官内へ仮設置され、近世以来の三方楽所と紅葉山楽人などを統合する役割を担った[4]。1871年(明治4年)8月10日の官制改正により雅楽局は廃止され、その業務は式部寮雅楽課へ引き継がれた[2]。
明治国家における音楽政策は、国家儀礼・国際儀礼に必要な音楽の制度化、国民教化のための国楽創成、音楽教育制度の確立という複数の課題を含んでいた。塚原康子は、1870年(明治3年)に設置された雅楽局を、明治政府にとって最初の音楽専門機関と位置づけ、その後身である式部寮雅楽課を、宮中儀礼・国家儀礼に関わる現業部門であると同時に、近代日本の音楽形成に関わる部局として論じている[5]。
式部寮雅楽課の活動は、雅楽の保存・伝承にとどまらなかった。1874年(明治7年)には宮中行事に必要な西洋音楽の兼修が始まり、1878年(明治11年)前後には、保育唱歌の作曲、パリ万国博覧会への出品、雅楽稽古所での公開演奏会など、明治前期の新しい音楽活動が展開された[5][6][1]。
前史
幕末維新期の雅楽伝承
近世の雅楽は、京都の大内楽所、奈良の南都楽所、大坂の天王寺楽所からなる三方楽所を中心に伝承された。三方楽所は、京都方・南都方・天王寺方の三系統からなる雅楽伝承の枠組みであり、明治維新後に雅楽局へ再編される旧来楽人組織の母体でもあった[7][8]。
幕末維新期には、宮中儀礼の再興や東京奠都にともない、雅楽奏演のあり方も大きく変化した。明治政府は、国家儀礼・宮中儀礼に必要な雅楽を近代官制のなかに組み込み、旧来の楽人組織を再編する必要に迫られた[9]。
雅楽局の設置
1870年(明治3年)11月7日、太政官内に雅楽局が仮設置された[2]。雅楽局は、明治政府にとって最初の音楽専門機関であり、近世以来の三方楽所、紅葉山楽人などを統合し、宮中儀礼・国家儀礼に必要な雅楽奏演体制を整えることを目的とした。
雅楽局の設置は、単に楽人を東京へ集める措置ではなく、近世以来の伝授権、奏演権、所伝差を整理し、雅楽を近代国家の儀礼制度に組み込む作業であった。1870年(明治3年)12月には、新体制下での唐楽・高麗楽・舞楽・催馬楽・朗詠などの公式曲目が定められ、のちの明治撰定譜へつながる撰定作業が進められた[4]。
設置と官制
雅楽局から式部寮雅楽課へ
1871年(明治4年)8月10日、雅楽局は廃止され、式部寮雅楽課が置かれた[2]。この改組により、雅楽局が担っていた楽人統合、雅楽教習、宮中儀礼での奏楽、楽譜整備などの業務は、式部寮の職掌の一部として引き継がれた。
式部寮は、内外の儀式、図書、舎人、雅楽などに関する事務を管掌した官署であり、式部寮雅楽課はそのうち雅楽を担う部局であった。式部寮雅楽課の設置は、雅楽を宮中儀礼・国家儀礼に不可欠な音楽として制度化する明治政府の方針を示すものであった。
京都出張雅楽課と牛込雅楽稽古所
雅楽局期には、1871年(明治4年)3月14日に京都へ雅楽局出張所が置かれ、同年4月24日には牛込御門内に雅楽稽古所が置かれた[2]。式部寮雅楽課は、これらの施設・組織を引き継ぎ、東京の雅楽稽古所を中心に伶人の教習・伝習を行った。
京都出張雅楽課は、京都に残る旧来の行事や楽人への対応を担ったが、1877年(明治10年)10月31日に廃止された[2]。これにより、雅楽制度は東京の宮内省系統へ集約される一方、京都・奈良・大阪など旧楽所所在地に残った楽人は、地域の社寺祭礼や民間雅楽団体の活動を通じて、別の形で雅楽伝承を継続していった[10][11]。
伶人・伶員の官制
式部寮雅楽課には、伶人・伶員などの職員が置かれた。明治期の楽部官制はたびたび改編され、1875年(明治8年)4月4日には式部寮の官等改正により権中伶人・権少伶人が増置された[2]。
1877年(明治10年)10月31日には、大伶人以下が廃され、伶人・伶員が置かれた[2]。この改編は、旧来の楽家を近代官制上の職員として再編する過程であった。1884年(明治17年)10月3日に式部寮が廃され式部職が置かれると、雅楽長、雅楽師長、雅楽師副長、雅楽師、雅楽手、雅楽生などの官名が整えられた[2]。
活動
宮中儀礼・国家儀礼での奏楽
式部寮雅楽課の基本的な任務は、宮中儀礼・国家儀礼における雅楽奏演であった。雅楽は、宮中祭祀、朝儀、行幸啓、皇室儀礼、国家的儀式に関わる音楽として位置づけられ、式部寮雅楽課はその演奏実務を担った。
明治国家において、雅楽は古代以来の宮廷音楽として保存されるだけでなく、近代国家の儀礼秩序を象徴する音楽として再定位された。式部寮雅楽課は、この再定位を具体的な奏楽体制として実現する部局であった[5]。
教習と伝承整理
式部寮雅楽課は、伶人の教習と雅楽伝承の整理にも関わった。近世以来、三方楽所や紅葉山楽人には家筋・地域・担当種目ごとの所伝差が存在した。雅楽局から式部寮雅楽課への再編は、これらの所伝を宮中儀礼に適合する統一的な体系へ整理する過程でもあった[4]。
牛込雅楽稽古所は、再編された伶人の教習・伝習の中核拠点となった。ここでは、従来の雅楽曲の稽古に加え、明治国家の新しい儀礼に対応する奏楽体制の整備が進められた。
明治撰定譜との関係
式部寮雅楽課の活動は、明治撰定譜の成立と密接に関係する。1870年(明治3年)12月には、雅楽局に対して新体制下での唐楽・高麗楽・舞楽・催馬楽・朗詠などの公式曲目が定められ、これに従って明治撰定譜の第一次撰定分が作成された[4]。
1873年(明治6年)12月には、雅楽改正にともなって撰定された譜面が式部寮から伶人へ渡され、以後この譜面を用いて教授するよう命じられた[12]。この譜面整備は、三方楽所や紅葉山楽人などに分かれていた所伝を、近代国家の宮中雅楽制度のもとで統一的に扱うための作業であった。
明治撰定譜は、のちの宮内省式部職楽部、さらに宮内庁式部職楽部の雅楽伝承において規範的な位置を占めるようになった。式部寮雅楽課は、この譜面整備を実際の教習・奏楽体制に接続する部局であった。
西洋音楽の兼修
式部寮雅楽課は、雅楽の保存・伝承にとどまらず、西洋音楽の兼修にも関わった。塚原康子によれば、1874年(明治7年)には、式部寮雅楽課において宮中行事に必要な西洋音楽の兼修が始まった[5]。
この西洋音楽兼修は、式部寮雅楽課が単なる古典雅楽の保存部局ではなく、国家儀礼・国際儀礼に必要な音楽を担う現業部門であったことを示している。伶人たちは欧州楽伝習を始めるにあたり、海軍軍楽隊の楽長から五線譜の読み書きを学び、のちには英国系軍楽教師から指導を受けた[13]。のちの宮内省式部職楽部は雅楽だけでなく洋楽演奏にも関わるようになり、式部寮雅楽課の時期はその前史として位置づけられる。
保育唱歌・儀式唱歌
式部寮雅楽課は、明治前期の唱歌づくりにも関与した。塚原康子は、1878年(明治11年)前後の式部寮雅楽課で、保育唱歌の作曲、パリ万国博覧会への出品、公開演奏会など、新時代の音楽に関わる活動が進められていたと論じている[6][1]。
最初期の保育唱歌では、フレーベル式幼児教育書由来の西洋曲の歌詞を翻訳し、式部寮雅楽課に在職していた伶人が新たに旋律を付した。これらの曲では、原曲の拍数を踏襲しながら、旋律を雅楽の律の五音音階に置き換える方法が用いられた[14]。
このような活動は、式部寮雅楽課が雅楽伝承の保存だけでなく、近代日本における新しい歌づくりにも関与したことを示している。また、雅楽音階が保育唱歌・儀式唱歌の創作に用いられたことは、明治国家における「国楽」創成の一環としても位置づけられる[15]。
万国博覧会への出品
式部寮雅楽課は、万国博覧会への出品を通じて、日本音楽の対外発信にも関わった。1878年(明治11年)のパリ万国博覧会では、楽器、楽譜、絵図、解説書を一組にして展示する方法がとられた[16]。
この出品では、雅楽の楽器や楽譜が、日本音楽を代表する資料として整えられた。展示用の楽譜には、成稿してまもない明治撰定譜に基づく楽譜も含まれており、海外での展示を意識した装丁が施された[17]。
塚原は、この展示方法が、のちの1893年(明治26年)のシカゴ・コロンブス万国博覧会における東京音楽学校の出品にも踏襲され、日本音楽の対外発信の定式となったと指摘している[16]。
公開演奏会と楽舞大演習
1878年(明治11年)12月10日・11日、営繕修理を終えた牛込雅楽稽古所の開業式に際し、式部寮雅楽課は公開演奏会を催した[18]。この催しは翌年から「楽舞大演習」と名づけられ、春秋二季に定例化された[18]。
この公開演奏会は、宮中儀礼のための非公開の奏楽を中心としていた雅楽が、近代的な公開演奏の場へ展開する契機であった。式部寮雅楽課は、儀礼音楽を担う官署であると同時に、明治前期における日本音楽の公開化・制度化に関わった部局でもあった。
地方楽人との関係
京都出張雅楽課の廃止
1877年(明治10年)10月31日、京都出張雅楽課は廃止された[2]。これにより、伊勢神宮や陵墓での奏楽などを除き、畿内各社の奏楽は官制上の公務から切り離され、在地の旧楽人や民間雅楽奏者へ委ねられていった[10][11]。
この変化は、雅楽制度の中央集権化であると同時に、地方における旧楽人の再組織化を促す契機でもあった。京都、奈良、大阪などでは、旧楽人が地域の社寺祭礼に関わりながら、民間雅楽団体や保存組織の形成へ向かった。
南都・天王寺・京都に残った旧楽人
奈良では、旧南都方楽家の系譜を引く楽人たちが、春日大社・氷室神社などの祭礼に関わりながら奏楽活動を継続した。1883年(明治16年)には、芝葛忠、東友秋、窪近政らが奈良雅楽練習所の設置を願い出て許可を得ており、旧南都方の伝承は近代奈良の雅楽活動へ接続していった[11]。
大阪では、旧天王寺方楽人らが1884年(明治17年)に雅亮会を結成し、四天王寺や住吉大社の楽事を継承した[10]。京都でも、旧楽人が北野天満宮などを中心に活動を続けた。これらの動きは、式部寮雅楽課を中心とする中央の制度再編が、地方の雅楽伝承の再編とも表裏の関係にあったことを示している。
後身機関
研究上の位置づけ
式部寮雅楽課は、存続期間としては1871年(明治4年)から1884年(明治17年)までの短期間の部局であったが、近代雅楽制度の形成において重要な位置を占める。第一に、雅楽局が始めた旧楽人組織の統合を引き継ぎ、伶人を近代官制上の職員として再編した。第二に、明治撰定譜の教習・実施を通じて、近代宮中雅楽の規範化を進めた。第三に、西洋音楽の兼修、保育唱歌、万国博覧会、公開演奏会などを通じて、雅楽を近代日本の音楽文化のなかに位置づけ直した。
塚原康子は、1878年(明治11年)前後の式部寮雅楽課について、国内で「音楽」という領域に最も近い先進的な部局であったと評価している[3]。この評価は、式部寮雅楽課を単なる雅楽保存機関ではなく、明治国家における音楽政策、国家儀礼、国際儀礼、教育唱歌、公開演奏、対外発信が交差する部局として捉える視点を示している。
また、式部寮雅楽課は、近世の楽人集団から近代の宮廷楽部への制度的転換を考えるうえでも重要である。三方楽所や紅葉山楽人を母体とする旧楽人組織は、雅楽局・式部寮雅楽課を経て、宮内省式部職楽部の制度へ組み込まれた。一方で、京都・奈良・大阪に残った旧楽人は、地域の社寺祭礼や民間雅楽団体の活動を通じて別系統の近代雅楽伝承を展開した。式部寮雅楽課は、こうした中央集権的な宮廷雅楽制度の形成と、地方における雅楽伝承の再編とをつなぐ節点でもあった。