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張存敬

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張 存敬(ちょう そんけい、生年不詳 - 901年)は、末の軍人本貫亳州

経歴

剛直な性格で、大胆で勇気があり、危地に臨んで恐れるところがなかった。中和年間、朱全忠に従って汴州に赴き、右騎都将となった。朱全忠に従って黄巣秦宗権を討ち、歴戦して危急に迫られることが多く、奇略により殊功を立てた。光啓年間、李罕之張宗奭が盟津で晋軍に包囲されているのに遭遇した。存敬は丁会葛従周とともに朱全忠の命を受けて救援に駆けつけた。存敬は騎兵を率いて晋将にあたり、諸軍がこれに続いて、晋軍の騎兵を破って、河橋の包囲を解いた[1][2]

大順2年(891年)、存敬は諸軍都虞候となり、霍存を補佐して宿州を攻略し、功により検校兵部尚書を加えられた。朱全忠が東征して徐州時溥兗州朱瑾を討つと、存敬はたびたび捕斬の功があった。戦うたびに軍の先頭に立ち、矢石の届くところに身を置いたので、行営都指揮使・検校右僕射となった。乾寧3年(896年)、武寧軍留後となり、潁州刺史を代行した[3][2]

光化2年(899年)夏4月、幽州劉仁恭魏州に進攻してくると、存敬は都指揮使となった。光化3年(900年)、存敬は葛従周とともに諸軍と連係して浮陽を攻め、数十柵を立て、劉守文を包囲した。劉仁恭が来援すると、存敬は軍をひそめて劉仁恭を乾寧軍の南の老鴉堤で攻撃した。この日、幽州の軍を破り、5万人を斬首し、馬慎交以下100人あまりを生け捕りにし、馬1万頭あまりを鹵獲した。この年の9月、朱全忠が鎮州を攻略するにあたって、存敬は兵を率いて滹沲河を渡り、鼓を鳴らしながら進軍した。鎮州の遊兵数千と遭遇して、これを駆逐し、鎮州の壅門から入城し、馬や牛やラクダ1万ほどを鹵獲した。翌日、鎮州の王鎔が人質を送って朱全忠に降ったため、存敬は凱旋した。ほどなく宋州刺史となった。その統治は有能で知られた。存敬は再び劉仁恭を討ち、数十日ほどで瀛州莫州祁州景州を下した。懐徳駅から定州の兵と白兵戦し、定州の王処直は城門を開いて降伏を願い出た[4][2]

天復元年(901年)春、河中節度使の王珂李克用と結んだことから、存敬は朱全忠の命を受けて王珂を討った。絳州を攻略して刺史の陶建釗を捕らえ、晋州刺史の張漢瑜を降した。進軍して河中府を包囲すると、王珂は降伏を願い出てきた。存敬は護国軍留後となった。検校司空を加えられ、ほどなく宋州刺史に転じた。赴任しようとしたところ、病に臥せり、10日を越えて河中府で死去した。後梁開平元年(907年)、太保の位を追贈された。乾化3年(913年)、さらに太傅の位を追贈された[4][2]

子に張仁潁・張仁願があった[2]

脚注

伝記資料

参考文献

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