後鳥羽院下野
From Wikipedia, the free encyclopedia
逸話
- 夫の家長は、『源家長日記』中で、13世紀初頭の歌壇状況として、殷富門院大輔が世を去り、二条院讃岐、三河内侍、宜秋門院丹後、小侍従らが高齢化して、女流歌人が少なくなったという後鳥羽院の嘆きを伝えつつ、七条院越前、宮内卿、俊成卿女、八条院高倉、七条院大納言等が新たに頭角を顕してきたと述べている。これは、後鳥羽院歌壇期待の新人でもあった妻に向けて書かれたのではないかと考えられている[2]。
- 後鳥羽院が配流先の隠岐から、都の歌人十五名に十題十首の和歌を求め、自らの詠歌と判を加えて八十番の歌合とした『遠島御歌合』に、下野も十首を詠進している。その中の「時雨」題の一首について、
右 勝 下野
— 『遠島御歌合』 時雨 四十五番
忘られぬ昔は遠くなりはてて 今年も冬ぞしぐれきにける
- 後鳥羽院は「昔は遠く」に強い情趣を感じて勝としている。これはこの歌合の中で下野が藤原隆祐に対して収めた唯一の勝となった[3]。
- 後鳥羽院配流後も、下野は「院を追慕し、その帰京までの団結を深め」ていた院の近臣グループに近い立場だったとされる[4]。更に院の没後も、六条派、反御子左派、そして後鳥羽院近臣グループが集った『春日若宮社歌合』に参加する等、反主流派的な立位置ながら歌壇とのつながりが継続していたことがわかる。『春日若宮社歌合』では、
右 勝 下野
— 『春日若宮社歌合』 雪 十三番
消あへぬ友待がもに風さえて こほりはてたる庭のゆきかな
右 勝 下野
— 『春日若宮社歌合』 恋 廿六番
くるれどもむなしき空をいくかへり おもひしらではながめかぬらん
- といった歌に寂寥感が漂うのはともかくとして、
右 下野
— 『春日若宮社歌合』 祝 三十九番
春日山しられぬ谷の埋木も もえ出る春にいまやあひみん
作品
| 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 | 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 | 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 千載和歌集 | 新古今和歌集 | 信濃 | 2 | 新勅撰和歌集 | 下野[* 2] | 2 | ||
| 続後撰和歌集 | 後鳥羽院下野 | 6 | 続古今和歌集 | 後鳥羽院下野 | 6 | 続拾遺和歌集 | 後鳥羽院下野 | 1 |
| 新後撰和歌集 | 後鳥羽院下野 | 1 | 玉葉和歌集 | 後鳥羽院下野 | 3 | 続千載和歌集 | 後鳥羽院下野 | 1 |
| 続後拾遺和歌集 | 後鳥羽院下野 | 1 | 風雅和歌集 | 後鳥羽院下野 | 2 | 新千載和歌集 | 後鳥羽院下野 | 1 |
| 新拾遺和歌集 | 後鳥羽院下野 | 1 | 新後拾遺和歌集 | 後鳥羽院下野 | 1 | 新続古今和歌集 | 後鳥羽院下野 | 2 |
| 名称 | 時期 | 作者名表記 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 石清水若宮歌合 | 1204年(元久元年)10月 | 下野 | 後鳥羽院と3番 |
| 北野宮歌合 | 1204年(元久元年)11月11日 | 女房下野 | 負2 |
| 春日社歌合 | 1204年(元久元年) | 女房下野 | 嘉陽門院越前と番い勝2持1 |
| 為家家百首 | 1229年(寛喜元年) | ||
| 石清水若宮歌合 | 1232年(寛喜4年)3月25日 | 女房下野 | 従二位家隆と番い勝1負1持1[6] |
| 日吉社撰歌合 | 1232年(貞永元年) | ||
| 光明峰寺入道摂政家十首歌合 | 1232年(貞永元年)7月 | 下野 | 藤原親季と番い勝4負1持5 |
| 名所月歌合 | 1232年(貞永元年)8月15夜 | 下野 | 源有長と番い勝3 |
| 遠島御歌合 | 1236年(嘉禎2年) | ||
| 春日若宮社歌合 | 1246年(寛元4年)12月 | 下野 | 判者知家と番い勝2負1[5] |
| 院御歌合 | 1247年(宝治元年) | 下野 | 蓮性と番い勝4負6[5] |
| 宝治百首 | 1248年(宝治2年) | 下野 | |
| 九月十三夜影供歌合 | 1251年(建長3年) | 下野 | 忠定(中山忠房)と番い勝3負3持4[5] |
- 家集は伝存しない。
