徳島隣人3人射殺事件
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徳島隣人3人射殺事件(とくしまりんじんさんにんしゃさつじけん)とは、1985年(昭和60年)6月に徳島県海部郡日和佐町奥河内井ノ上(現:美波町奥河内井ノ上)で発生した猟銃による殺傷事件[1]。男Iが散弾銃を発砲して隣人ら3人を射殺し1人を負傷させた[1]。
| 徳島隣人3人射殺事件 | |
|---|---|
| 場所 |
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| 標的 | |
| 日付 | 1985年(昭和60年)6月3日[1] (UTC+9) |
| 概要 | 男IがAの自宅に押し入り、応対したAとBを狩猟用散弾銃で射殺した[1][2]。その後、以前から恨みを持っていたCを射殺した[2]。この他、農作業をしていたDの手首に流れ弾が当たって加療約2週間の怪我を負った[1][3][4]。 |
| 攻撃手段 | 狩猟用上下2連散弾銃を発砲[1] |
| 攻撃側人数 | 1人[1] |
| 武器 | 狩猟用上下2連散弾銃[注 1][1] |
| 死亡者 | 3人[1] |
| 負傷者 | 1人[1] |
| 犯人 | 竹材業の男I(当時52歳)[1][5] |
| 容疑 | 殺人・殺人未遂[6] |
| 動機 | 自宅裏山にあるユズ畑に勝手にゴミを捨てたと思い込んだことなどに起因する近隣トラブル[2] |
| 対処 | Iを緊急逮捕・起訴[7] |
| 刑事訴訟 | 死刑(控訴審判決・最高裁の上告棄却判決により確定 / 執行済み)[3][8] |
| 影響 | Aの姉が事件の惨状を目の当たりにした結果、精神的ショックから自殺した[4][9]。 |
| 管轄 | |
概要
1985年(昭和60年)6月3日午後5時半ごろ、竹材業の男I(当時52歳)は以前からトラブルとなっていた隣人が畑にゴミを捨てたと思い込み、隣人宅を訪れ口論となった[1][2]。その後、Iは自宅から狩猟用上下2連散弾銃を持ち出して隣人の男性A(当時46歳)に4発発砲し、Aを射殺した[1][10]。Aを射殺した後、Aの妻B(当時54歳)にも2発発砲し、Bを射殺した[1][10]。その直後に路上で日頃トラブルがあった近隣住民の男性C(当時71歳)に2発発砲して負傷させ、Cを追跡した上で至近距離から2発発砲して射殺した[1][10]。また、Cを撃った流れ弾が農作業中の主婦D(当時49歳)の手首に当たり、加療約2週間の怪我を負った[1][3][4]。
その後、Iは軽トラックで徳島市方面に逃走した後に軽トラックを乗り捨てたが、徳島県警捜査一課と牟岐警察署が捜査本部を設置して捜査を行った結果、4日未明に井ノ上地区から北へ約4キロメートル離れた山道で徳島県警機動隊員に見つかり、殺人容疑で緊急逮捕された[1][7][11]。
犯人・元死刑囚I
本事件の犯人である男I・N(姓名のイニシャル / 以下文中では姓イニシャルを用い「I」と表記)は1932年(昭和7年)12月12日に生まれた[12]。事件当時は徳島県海部郡日和佐町奥河内井ノ上(現:美波町奥河内井ノ上)在住で竹材業を長らく営んでおり、事件当時まで取引先と大きなトラブルを起こすことはなかった[1][5]。一方で短気な一面もあり、隣人が軽トラックに勝手にゴミを捨てたと思い込んで口論となるなど近隣住民との間で頻繁にトラブルを起こしていた[5][1][13]。
刑事裁判で死刑が確定し、死刑囚となったIは法務省(法務大臣:鳩山邦夫)が発した死刑執行命令により、2007年(平成19年)12月7日に収監先の大阪拘置所で死刑を執行された(74歳没)[16]。
刑事裁判
公判で弁護人は、Iが精神遅滞者であり、短気で爆発的、攻撃性の傾向にあることから事件当時、飲酒による酩酊状態と相まって心神耗弱状態だったと主張した[5]。一方、検察官は死刑を求刑した[2]。
第一審・徳島地裁
1988年(昭和63年)3月22日、徳島地裁(山田真也裁判長)は被告人Iに無期懲役の判決を言い渡した[17][2]。死刑を回避した理由について徳島地裁は、Iの刑事責任は重大であるが、犯行は1回限りの感情の爆発であり、刑を減軽する余地があると述べた[2]。また、Iの犯行が一般的に犯罪の動機となる利欲や情欲の満足を目的としたものではなく、破滅型の犯行であり、仮に死刑を適用しても一般人の犯行を予防する意義がないこと、無差別的大量殺人とも類型が異なることも量刑の理由として挙げた[4][9]。この判決に対して徳島地検は量刑不当を理由に控訴した[4]。
控訴審・高松高裁
1989年(平成元年)11月28日、高松高裁(村田晃裁判長)は「被告人は過去にも粗暴な行動を繰り返している。年齢的な面から見ても更生は困難。一審判決は軽すぎて不当」として無期懲役の第一審判決を破棄・自判し、Iに検察官の求刑通り死刑判決を言い渡した[18][13]。判決で高松高裁は、事件当時のIの責任能力について「被告人は、未分化で惰性の低下、易怒性、執着性を持ち、情動の露呈しやすい人格傾向にあるものの、その程度は著しく劣悪な水準とはいえない」としてIの知的水準や性格などを踏まえた上で完全責任能力を認定した[5]。また、一審で量刑の理由として挙げられた、破滅型の犯罪であり、被告人に死刑をもって報いることは一般予防の目的からは特に重要な意義があるとはいえない旨の説示については、Iに真摯な反省が見られないことなどを理由に「にわかに賛同し得ない」とした| [注 2][4]。
その上で量刑について「被告人が反社会性を有しており、一旦その逆鱗に触れる事態に直面した場合には、激情の赴くままに本件と同様の重大な犯行に至る可能性は十分にあると考えられ、かつ、被告人の現在の年齢やその性格的特徴からすると、今後これを矯正することは著しく困難であると言わざるを得ない」として、犯行内容の重大性や遺族の処罰感情の峻烈さなどを考慮した上で一審判決の量刑は軽すぎて不当であって破棄を免れないと結論付けた[4]。Iは判決を不服として上告した[2]。
上告審・最高裁第二小法廷
1996年(平成8年)3月4日、最高裁第二小法廷(河合伸一裁判長)は「犯行の動機や結果に照らすと被告人の罪責は重大で、死刑はやむを得ない」としてIの上告を棄却する判決を言い渡した[2][19]。その後、Iは判決訂正申立を行ったが、3月18日付で棄却されたため、3月20日にIの死刑判決が確定した[20][15]。