日本における死刑囚の一覧 (1990年代)
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1990年
1990年(平成2年)に死刑判決が確定した死刑確定者は6人である[1][2]。
| 事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
|---|---|---|---|
| 銀座社交クラブママ殺害事件 (N) | 1990年2月22日[2][3] | 1978年5月21日 1978年6月10日[4] | 1946年(昭和21年)12月18日生まれ[5]。共犯のHは1988年に上告を取り下げ、死刑が確定(参照)[4]。 1980年1月18日、東京地裁刑事第6部(小野幹雄裁判長)でHとともに死刑判決を受けた[6]。控訴したが、1982年1月21日に東京高裁(市川郁雄裁判長)で控訴棄却判決を受けた[4]。 1990年2月1日に最高裁第一小法廷(佐藤哲郎裁判長、定年退官のため四ツ谷巖裁判官が代読)で上告棄却判決を受け[7]、同月22日付で死刑が確定[2]。 1996年12月20日に東京拘置所で死刑執行(50歳没)[4]。 |
| 熊本主婦殺人事件(金川一[8]) | 1990年4月21日[2][2][9][10] | 1979年9月11日 | 1950年(昭和25年)7月7日生まれ[4]。2020年9月27日時点で[11]福岡拘置所に収監中(現在75歳)[12]。 1979年9月11日14時ごろ、熊本県球磨郡免田町(現:あさぎり町)の路上で、偶然すれ違った主婦(当時21歳)を乱暴しようと追いかけ、近くの畑で襲って首を絞めた上、持っていた短刀で滅多刺しにして殺害した[13]。同事件以前にも少年時代に強盗殺人事件を起こし[14]、懲役5年以上10年以下の不定期刑の判決を受け[13]、10年間服役していたが[15]、その刑期を終えて出所してから3か月後の犯行である[13]。凶器は未発見のままだが、確定判決はKの供述から「短刀様の鋭利な刃物」と認定している[16]。 検察官は1981年7月9日に熊本地裁八代支部で開かれた第一審の公判で死刑を求刑したが、Kは同月17日の最終弁論でそれまでの供述を翻して殺害を否認、弁護側も自白以外の証拠がなく、凶器も未発見であることを主張。証拠の見直しが行われたが、検察官は1982年3月15日の公判で改めて死刑を求刑した。同月6月14日、熊本地裁八代支部(河上元康裁判長)は有罪を認定、残忍な犯行であることや反省がないことから「極刑も考えられる」としながら死刑求刑を退け、無期懲役の判決を言い渡した[17]。検察官が「残忍であり、再犯の恐れも極めて高い」と控訴した一方、弁護人も控訴し、控訴審では「凶器のナイフが見つかっていないなど不確定なものを残して死刑にすべきでない。異常人格で犯行時は心神耗弱に近い状態だった」と主張していたが、福岡高裁第2刑事部(緒方誠哉裁判長)は1983年3月17日に原判決を破棄自判し、Kを死刑とする判決を言い渡した[15]。 1990年4月3日に最高裁第三小法廷(安岡満彦裁判長)で上告棄却判決を受けた[13]。異議申立も同月20日付で棄却され[10]、同月21日付で死刑が確定[2][9][10]。 死刑確定後、2006年12月までに福岡高裁に3回の再審請求を起こしている[18][19]。 |
| 永山則夫連続射殺事件(永山則夫) | 1990年5月9日[2] | 1968年10月11日 - 11月5日 | 「警察庁広域重要指定108号事件」[20]。 1949年(昭和24年)6月27日生まれ[21]。各事件当時19歳の少年死刑囚。 1979年7月10日に第一審・東京地裁刑事第5部(蓑原茂広裁判長)で死刑判決を受けたが控訴し[22]、1981年8月21日に控訴審・東京高裁刑事第2部(船田三雄裁判長)は第一審判決を破棄自判して無期懲役判決を言い渡した[23]。 しかしこの控訴審判決を不服とした東京高検が最高裁へ上告したところ[24][25]、1983年7月8日に最高裁第二小法廷(大橋進裁判長)は上告審判決公判で「死刑を回避した控訴審判決は量刑不当。破棄しなければ著しく社会正義に反する」などとして原審を破棄し、審理を東京高裁に差し戻した[26]。最高裁が量刑不当を理由に被告人に不利益な方向で控訴審判決を破棄して高裁への差し戻しを命じた事例は戦後刑事裁判史上初で、最高裁は同時に判決理由で死刑適用基準について初めて詳細に明示した[26](後の「永山基準」)。 差し戻し後の控訴審では1987年3月18日に東京高裁刑事第3部(石田穣一裁判長)が第一審・死刑判決を支持して被告人・永山の控訴を棄却する判決を言い渡した[27]。そして1990年4月17日に最高裁第三小法廷(安岡満彦裁判長)が上告棄却判決(差し戻し控訴審の死刑判決を支持)を言い渡し[28]、永山は同判決に対し訂正を申し立てたが、これも最高裁第三小法廷(坂上壽夫裁判長)から棄却決定が出されたため、(決定が永山に通達された)1990年5月9日に死刑が確定[29]。 1997年8月1日に東京拘置所で死刑執行(48歳没)[30]。 |
| 長崎3人殺害事件(村竹正博[31]) | 1990年5月12日[2] | 1978年3月21日[21] | 1944年(昭和19年)3月30日生まれ[21]。 第一審・長崎地裁佐世保支部(亀井義朗裁判長)では情状酌量により無期懲役判決(1983年3月30日)を受けたが、控訴審・福岡高裁(桑原宗朝裁判長)で1985年10月18日に一審破棄・死刑判決を受けた[21]。 1990年4月27日に最高裁第二小法廷(藤島昭裁判長)で上告棄却判決を受け[32]、同年5月12日付で死刑が確定[2]。1998年6月25日に福岡拘置所で死刑執行(54歳没)[21]。 |
| 空知連続殺人事件 (H) | 1990年10月25日[2][33] | 1972年5月6日 1972年8月19日 1974年5月12日[34] | 1934年(昭和9年)5月8日生まれ[21]。離婚後、重機の運転手として勤務しながら男で1つで小学生の息子2人を育てていたが、1972年5月6日に[34]空知支庁管内・月形町で女子専門学校生A(当時19歳)を乗用車内で暴行して窒息死させた[35](殺人・強姦致死事件)ほか、同年8月19日には[34]同管内奈井江町でデパート店員の女性B(当時19歳)を同様の手口で殺害して遺体を山林に遺棄した[35](殺人・強姦致死および死体遺棄事件)。また1974年5月12日には奈井江町内で農家の主婦C(当時40歳)を乗用車で拉致し、強姦して負傷させた上で農道上に放置する事件(強姦致傷事件)を起こし[34]、同年5月26日にC事件の容疑で緊急逮捕された[36]。その後A・B両被害者の殺害を自供し[36]、1974年6月6日にC事件(強姦致傷)の加害者として、同月22日にはA事件(殺人・強姦致死)とB事件(殺人・強姦致死および死体遺棄)の加害者としてそれぞれ起訴された[34]。「証拠は違法捜査による自白のみで物証がない」として無罪を主張[21]。1976年6月24日に札幌地裁岩見沢支部は3罪状のうち死体遺棄を無罪と判断し、殺意も否定して無期懲役判決を言い渡したが[37]、被告人H・検察官とも控訴した[38]。札幌高裁(山本卓裁判長)は1979年4月12日の判決公判で、原判決が強姦致死と認定した2事件について未必の殺意があったと認定、また死体遺棄も有罪と認定して原判決を破棄、殺人、死体遺棄、強姦致傷の3罪状を適用して死刑判決を言い渡した[38]。上告審では安田好弘らが弁護団を再編して弁護活動を行ったが[注 1][39]、1990年9月13日に最高裁第一小法廷(角田礼次郎裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され[40][41]、同年10月23日付で判決訂正の申し立ても棄却されたため、同月25日に死刑が確定[注 2][33]。 死刑確定後の1992年9月24日に札幌高裁へ再審請求したが[42]、2001年2月16日に再審請求棄却決定がなされた[43]。同月19日に異議申し立てをしたが2003年3月31日に異議申し立ても棄却されたため、同年4月7日に最高裁へ特別抗告していた[43]。 札幌刑務所札幌拘置支所[注 3]に収監されていたが、2003年8月にスキルス性胃癌と診断され、同年12月には胃の全摘手術を[43]八王子医療刑務所で受けた後、収監先・札幌拘置支所へ戻り[35]療養していた[43]。しかし2004年6月4日、癌性悪液質により札幌刑務所[注 3]の病舎内で病死(70歳没)[43]。 |
| 三崎事件(荒井政男[45]) | 1990年10月31日[2] | 1971年12月21日[46] | 1927年(昭和2年)2月4日生まれ[21]。事件当時は神奈川県横浜市金沢区谷津町363に在住し、横浜の寿司店「あらい」と藤沢市内の鮮魚店2軒を経営していたが、経営不振に陥り、店舗の家賃など約50万円が未納となり、返済を迫られていた[47]。 1971年12月22日23時35分ごろ、神奈川県三浦市三崎町二丁目18番6号の船舶食料品販売業者宅1階で、経営者の男性(53歳)に対し、100万円の借金を申し出たが、断られたことに立腹[48]。持ってきた魚切包丁で男性と妻(当時49歳)の胸・首・背中などを刺して殺したほか[注 4]、2階にいた夫婦の長女(当時17歳:県立大津高校2年生)も胸などを刺して殺害した[48]。夫婦の次男(14歳:市立三崎中学校2年生)は事件当時、殺された姉(長女)とともに同宅2階にいたが、窓から飛び降りて助かった[48]。その後、犯人の男2人は駐車してあったコロナマークIIで国道16号沿いに横須賀方面へ逃走した[46]。当初の目撃証言によればマークIIのボディカラーは「グリーン」だったが[46]、後に「グレー」となっている[49]。 被害者の男性と荒井は約20年前から知り合いだった[47]。被害者遺族である次男(当時14歳)らの証言から、車のナンバーは「4375」と断定されたほか[49]、次男の証言により、顔見知りの犯行と推測されていた[47]。現場の住宅の瓶に遺されていた清涼飲料水の瓶に付着していた指紋が荒井のものと一致したことや、荒井が目撃された車のナンバーとよく似た「横浜5む4379」のコロナマークIIを持っていたことから、荒井の犯行と断定された[47]。 逮捕直後は犯行を自供していたが[47]、1974年2月24日の初公判以降は自供を翻して殺人を否認、凶器が未発見に終わるなど物証が乏しかったことから、判決公判までに35回の審理が重ねられ[48]、初公判から判決公判(第36回公判)まで4年7か月の長期審理となった[50]。しかし、横浜地裁横須賀支部(秦不二雄裁判長)は唯一の手掛かりである次男の証言の信用性を認め、1976年9月25日に死刑判決を言い渡した[50][48]。 荒井は控訴したが、東京高裁第12刑事部(小野慶二裁判長)は1984年12月18日、現場に遺留されていた足跡などから荒井の犯人性を認定し[51]、控訴棄却の判決を言い渡した[52][51]。荒井は上告したが、1990年10月16日に最高裁第三小法廷(坂上壽夫裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され[53][54]、同月31日付で死刑が確定[2]。 東京拘置所に収監されていたが、高血圧や糖尿病などの持病があり、2009年7月ごろから体調を崩して拘置所内の病棟で酸素吸入や投薬治療を受けるようになり、9月3日に所内で敗血症のため病死(82歳没)[55]。死後、1991年からなされていた再審請求を荒井の長女が継承し[56]、2023年(令和5年)1月17日には遺族が横浜地裁横須賀支部へ第3次再審請求した[57]。 救援会の機関紙『潮風』がある[21]。 |
1991年
1991年(平成3年)に死刑判決が確定した死刑確定者は5人である[1][2]。
| 事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
|---|---|---|---|
| 福岡県直方市強盗殺人事件 (T) | 1991年1月16日[2][9][10] | 1980年4月23日[21] | 1932年(昭和7年)6月20日生まれ[21]。 1956年(昭和31年)9月9日に福岡県飯塚市外二瀬町の質屋へ3人組で押し入り、経営者を刺殺する強盗殺人事件を起こし、飯塚警察署(福岡県警)に逮捕された[58]。同事件では1957年(昭和32年)10月30日に福岡高裁で無期懲役判決を受けて熊本刑務所に収監され、1978年(昭和53年)11月22日に仮釈放されたが[59]、仮釈放中に本事件を起こした(再犯)[60]。 1980年4月23日に福岡県直方市頓野で女性(当時64歳)宅に侵入し、金品を物色中に被害者に見つかったことから絞殺して現金2,000円を奪った[60]。また同年6月25日には同県北九州市八幡西区楠木二丁目へ盗みに入り、それを見つけて追いかけてきた男性の首などをナイフで突き刺し[61]、約6か月の怪我を負わせたほか、1979年11月 - 1980年6月にかけて15件の盗みを重ねた[62]。 1981年7月14日に第一審・福岡地裁小倉支部(佐野精孝裁判長)で死刑判決[62]。1986年12月2日に控訴審・福岡高裁刑事第1部(永井登志彦裁判長)で控訴棄却判決を受け[63]、最高裁第二小法廷(中島敏次郎裁判長)で1990年12月14日に上告棄却の判決を受けたが、上告審の判決文に殺人事件と余罪の空き巣の間隔を「2か月」とすべきところ「1年2か月」と誤記していたため、これを把握した最高検察庁が同日中に判決訂正の申し立てを行い[60]、同月17日に改めて訂正判決が言い渡された[64]。最高裁が刑事事件判決における誤記などを訂正する判決を言い渡した事例は1964年(昭和39年)[注 5]以来26年ぶりで、死刑事件では史上初だった[64]。その後、1991年1月16日付で死刑が確定[2][9][10]。 1998年6月25日に福岡拘置所で死刑執行(66歳没)[21]。 |
| パチンコ景品商殺害事件 (S) | 1991年2月28日[2][9][65] | 1983年1月16日[21] | 1931年(昭和6年)12月28日生まれ[21]。1950年11月、強盗殺人などで無期懲役の判決を受け、1975年10月に仮釈放された[65]。 知人男性(当時69歳)に借金を申し込み、拒絶された場合は殺害して現金を奪うことを考え、1983年1月16日深夜、男性宅に忍び込んで借金を申し込んだが、拒絶されたため頭部を殴打して殺害し、現金128万円を強取した[66]。 1984年1月23日に東京地裁(田尾勇裁判長)で死刑判決を受け、1985年7月8日には東京高裁(柳瀬隆治裁判長)で控訴棄却判決[21]。 1991年2月5日に最高裁第三小法廷[9](可部恒雄裁判長)[21]で上告棄却判決を受け、同月28日付で死刑が確定[2][9]。 1998年6月25日に東京拘置所で死刑執行(66歳没)[21]。 |
| 自殺偽装夫殺害事件 (M) | 1991年3月2日[2] | 1974年8月8日 1978年4月24日[21] | 1932年(昭和7年)3月10日生まれ[67][21]。本籍地は東京都江東区東陽一丁目、住居は同区南砂二丁目、飲食店経営[67]。戦後5人目の女性死刑囚[68][69]。 元バー経営者[70]。夫(死亡当時47歳)に愛人ができ、家庭を顧みなくなったことから、自身の愛人である元バーテンの男A(事件当時80歳)[注 6]と共謀した上で[70]、夫を殺害して退職金を得ることを計画[69]。1974年8月8日夜、東京都江東区南砂二丁目の自宅で都市ガスを放出して就寝中の夫を一酸化炭素中毒死させ[70]、犯行後にAとともに夫の遺体を風呂場へ運び、入浴中に一酸化炭素中毒死したように偽装した[71]。また自身が経営していたバーにホステスとして勤めていた女T(殺人罪などで懲役15年が確定)が[71]、内縁の夫O(死亡当時36歳)と別れたがっていたことから[70]、死亡保険金1,200万年の保険に加入していたOを殺害して保険金を分配することを計画[70]。A・Tの2人に加え、Tの愛人だった店のバーテン(懲役10年が確定)も含む3人と共謀した上で、1978年4月24日深夜、江東区内の有明埋立地にOを誘い出して睡眠薬入りドリンクを飲ませ、首を絞めて殺害、遺体を叢に遺棄した[70]。 1978年、共犯者らと経営していたバーの店員の内縁の夫を殺害して死体を遺棄。警察がMらを逮捕して取り調べる過程で、1974年にMが夫をガス中毒死に偽装して殺していた事実も判明した[72]。 殺人・死体遺棄の罪に問われた[71][68]。裁判でMは夫殺害については無実を主張したが[70]、1980年5月6日に東京地裁刑事第15部(小林充裁判長)は両事件ともMの有罪を認定した上でMを死刑(求刑通り)、Aを懲役9年(求刑:懲役12年)とする判決を言い渡した[71]。女性に対する死刑判決は当時、「日本閣事件の」の犯人である女(戦後3人目の女性死刑囚)に宣告されて以来と言われた[71]。 2人とも控訴したが、1986年6月5日に東京高裁刑事第10部(寺沢栄裁判長)は2人の控訴を棄却する判決を言い渡した[70]。 M・Aともに上告したが、1991年1月31日に最高裁第一小法廷(四ツ谷巖裁判長)は2人の上告を棄却する判決を言い渡した[68]。判決訂正申立も同年3月1日付で棄却され[73]、Mは同月2日付で死刑が確定[2]。 東京拘置所に収監されていたが、再審請求中の2007年7月17日に所内で病死(75歳没)[21]。 |
| 泰州くん誘拐殺人事件 (T) | 1991年7月1日[2][9][74] | 1984年2月13日[21] | 1939年(昭和14年)8月15日生まれ[21]。 1985年7月17日に広島地裁福山支部(雑賀飛龍裁判長)で死刑判決を、1986年10月21日に広島高裁(久安弘一裁判長)で控訴棄却判決を受けた[21]。 1991年6月11日、最高裁第三小法廷(園部逸夫裁判長)で上告棄却判決を受ける[75]。判決訂正申立も同月28日付の第三小法廷決定[事件番号:平成3年(み)第5号・6号]で棄却され[76]、同年7月1日付で死刑が確定[2][9][74]。 死刑確定後に俳句の投稿を禁止され[21]、1998年11月19日に広島拘置所で死刑執行(59歳没)[注 7][78]。 |
| 大宮母娘殺害事件(佐川和男[79]) | 1991年12月18日[2][3] | 1981年4月4日[21] | 1951年(昭和26年)3月21日生まれ[21]。 1982年3月30日に浦和地裁(米沢敏雄裁判長)で死刑判決を、1987年6月23日に東京高裁(小野慶二裁判長)で控訴棄却判決を受けた[21]。 1991年11月29日に最高裁第二小法廷(藤島昭裁判長)で上告棄却判決を受け[80]、同年12月18日付で死刑が確定[2][3]。共犯は逃亡中に病死[21]。 1999年12月17日に東京拘置所で死刑執行(48歳没)[21]。 |
1992年
1992年(平成4年)に死刑判決が確定した死刑確定者は5人である[1][81]。
| 事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
|---|---|---|---|
| 市原の両親殺し (S)[82] | 1992年2月25日[2] | 1974年10月30日[82] | 1952年(昭和27年)9月14日生まれ[83]。事件当時は千葉県千葉市殿台在住、ドライブイン従業員[82]。2019年10月1日付で[84]東京拘置所に収監中(現在73歳)[83]。 確定判決によれば、1974年5月ごろ、千葉市栄町でトルコ嬢と知り合い、結婚を考えるようになっていたが、市原市八幡北町でタイヤ修理業を営んでいた両親(当時59歳の父親、48歳の母親)から何度も結婚をやめるよう説得されており、10月29日には女性から自分にかかってきた電話を取り次いでもらえなかったら父親と口論になった[82]。同月30日には実家に行き、将来のことなどを話し合ったが、まとまらないまま16時50分ごろに家路についたものの、車を借りるためにすぐ実家に戻り、父親に車を2、3日貸してほしいと頼んだところ、父親から女性を侮辱されたことに憤慨し、17時20分ごろ、父親を登山ナイフ(刃渡り約13.7 cm)で刺殺[82]。直後、2階から降りてきた母親も同様に刺殺した上で、11月1日5時30分ごろ、2人の遺体を毛布で包み、市原市五井南海岸の養老川河口公共物物揚場第3号岸壁まで運び、遺体にそれぞれ錘としてタイヤホイール各1個を取り付け、海に捨てた[82]。 事件後、Sは自ら市原警察署に「両親が行方不明になった」と届け出たが、同年11月5日に殺人、死体遺棄容疑で逮捕され、同月9日から10日にかけてそれぞれ両親の遺体が発見され、Sは同月26日、殺人・死体遺棄罪で起訴された[85]。 1975年3月17日に千葉地裁刑事第2部で第一審の初公判が開かれたが、Sは父は母によって殺害され、母も自身の知っている第三者によって殺されたとして無罪を主張した[85]。1979年2月23日にはいったん結審したが、検察官が新証拠を申請し、同年3月12日から弁論が再開された[85]。同刑事部(太田浩裁判長)は1984年3月15日の判決公判でSによる犯行と認定し、死刑判決を言い渡した[82]。Sは控訴したが、1986年8月29日に東京高裁(石丸俊彦裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[86]。 Sは上告したが、最高裁第一小法廷(大堀誠一裁判長)は1992年1月30日にSの上告を棄却する判決を言い渡した[87][88]。Sからなされた判決訂正申立も同月24日付の決定で棄却されたため[89]、25日付で死刑が確定[2]。事件発生から約18年後の死刑確定だった[87]。 この事件をモデルに、愛人への傾倒と両親への愛憎から[86]、両親を殺害した青年の心理をめぐり、中上健次の小説『蛇淫』や[90]、同小説を原作とした映画『青春の殺人者』(監督:長谷川和彦)が制作された[88]。 |
| 東京都北区幼女殺害事件 (S) | 1992年2月29日[2][91][74] | 1979年7月28日[83] | 1937年(昭和12年)2月12日生まれ[83]。無期懲役刑の受刑者が仮釈放中に再犯した事件[83]。1979年9月9日に逮捕されたSは、20年前にも7歳の少女を殺害した前歴があり、15年間服役して仮釈放を受けている最中の事件であった[92]。 1981年3月16日に東京地裁(松本時夫裁判長)で死刑判決を、1985年9月17日に東京高裁(寺沢栄裁判長)で控訴棄却判決を受けた[83]。 1992年2月18日に最高裁第三小法廷(可部恒雄裁判長)で上告棄却判決を受け[93]、同月29日付で死刑が確定[2][91]。 1999年9月10日に東京拘置所で死刑執行(62歳没)[83]。 |
| 福島女性飲食店経営者殺害事件 (T) | 1992年7月3日[94][91][74] | 1990年5月2日[83] | 1938年(昭和13年)4月27日生まれ[83]。無期懲役刑の受刑者が仮釈放中に再犯した事件[83]。 1992年6月18日に福島地裁郡山支部(慶田康男裁判長)で死刑判決を受けた[83]。控訴せず[83]、同年7月3日付で死刑が確定[94][91]。 1999年9月10日に宮城刑務所(収監先・仙台拘置支所に隣接)[注 3]で死刑執行(61歳没)[83]。 |
| 熊本"お礼参り"母娘殺害事件 (M) | 1992年10月6日[94][95][96] | 1985年7月24日 | 1930年(昭和5年)4月10日生まれ[83]。無期懲役刑の受刑者が仮釈放中に再犯した事件[83]。 1986年8月5日に熊本地裁(荒木勝己裁判長)で死刑判決を受け、1987年6月22日に福岡高裁(浅野芳朗裁判長)で控訴棄却判決を受けた[83]。 1992年9月24日に最高裁第一小法廷(大堀誠一裁判長)で上告棄却判決を受け[97]、同年10月6日付で死刑が確定[94][95][96]。 1999年9月10日に福岡拘置所で死刑執行(69歳没)[83]。 |
| 赤穂同僚妻子殺害事件 (N) | 1992年10月19日[94] | 1983年1月19日[83] | 1950年(昭和25年)6月17日生まれ[83]。 1983年1月、兵庫県赤穂市で同僚の妻(当時33歳)と長男(同4歳)を車で連れ出し、妻を絞殺したほか、長男も千種川に投げ込んで水死させた[98]。また健康保険証や印鑑を奪い、その保険証を悪用して現金100万円を引き出した[98]。ゲーム機賭博に凝った末、サラ金への借金返済に困ったことが動機である[99]。 1984年7月10日に神戸地裁姫路支部(藤原寛裁判長)で死刑判決を[100]、1987年1月23日に大阪高裁第6刑事部(家村繁治裁判長)で控訴棄却判決を受けた[101]。 1992年9月29日に最高裁第三小法廷(貞家克己裁判長)で上告棄却判決を受け[98][99]、同年10月19日付で死刑が確定[94]。 2007年4月27日に大阪拘置所で死刑執行(56歳没)[83]。 |
1993年
1993年(平成5年)に死刑判決が確定した死刑確定者は7人である[1][94]。
| 事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
|---|---|---|---|
| 連合赤軍事件(坂口弘) | 1993年3月10日[94] | 1971年 - 1972年2月 | 1946年(昭和21年)11月12日生まれ[83]。2020年9月27日時点で[11]東京拘置所に収監中(現在79歳)[102]。 共犯の一部が超法規的措置で出国[83]。 1982年6月18日に東京地裁(中野武男裁判長)で死刑判決を、1986年9月26日に東京高裁(山本茂裁判長)で控訴棄却判決を受けた[83]。1993年2月19日に最高裁第三小法廷(坂上壽夫裁判長)で上告棄却判決(第一審・控訴審の死刑判決を支持)を受け[103]、同判決への訂正申し立ても1993年3月9日付で棄却されたため[104]、同月10日付で[94]、坂口・永田の死刑が確定。また、植垣康博(元兵士)も懲役20年の判決が確定している[105]。 著書『坂口弘歌稿』『あさま山荘1972』や歌集『常しへの道』『暗黒世紀』など[83]。 |
| 連合赤軍事件(永田洋子) | 1993年3月10日[94] | 1971年 - 1972年2月 | 1945年(昭和20年)2月8日生まれ[83]。坂口の共犯(裁判経緯は坂口と同一)[83]。 脳腫瘍の手術後に脳萎縮・誤嚥性肺炎などを患い[106]、2011年2月5日に多臓器不全のため東京拘置所内で死去(65歳没)[106][107]。死去時点で再審請求中だった[83]。著書『十六の墓標』『私生きてます』など多数[83]。 |
| 山中湖連続殺人事件(澤地和夫) | 1993年7月5日[94] | 1984年10月11日[108] 1984年10月25日[108] | 1939年(昭和14年)4月15日生まれ[83]。元警視庁警部[109]。 1980年1月、21年あまり勤務した警視庁を退職し、新宿に大衆割烹店を開店したが、経営が悪化、1983年8月には1億5,000万円の負債を抱えて閉店に追い込まれ、一攫千金を狙って強盗殺人を計画した[108]。 1984年10月11日、自分と同じく借金に苦しんでいた仲間の男2人(I・Pの両名。それぞれ死刑と無期懲役が確定)と共謀し、東京都北区の宝石商男性(当時36歳)を山梨県南都留郡山中湖村の別荘に誘い出して絞殺、現金や指輪など6,000万円相当を奪い、死体を床下に埋めた[108]。次いで同月25日、Iと共謀して埼玉県上尾市の女性金融業者(当時61歳)を土地をめぐる融資話で誘い出し、浦和市(現:さいたま市浦和区)内を走行中の車内で絞殺、現金2,000万円や指輪、預金通帳などを奪い、死体を別荘床下に埋めた[108]。 刑事裁判では強盗殺人・死体遺棄罪などに問われた[110]。1987年10月30日、東京地裁刑事第2部(中山善房裁判長)は澤地・Iの両被告人を死刑、P被告人を無期懲役とする判決を言い渡し[108]、東京高裁第9刑事部(内藤丈夫裁判長)も1989年3月31日に3被告人の控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した[111]。 その後澤地・Iの両被告人は最高裁に上告していたが、1993年3月に死刑執行が3年4か月ぶりに再開されると、澤地はそれに対する抗議の意図で[112]、同年7月5日、東京拘置所長に上告取下書を提出[113](同日付で死刑確定)[注 8][94]。なお、共犯Iは1995年(平成7年)7月3日に最高裁第二小法廷(大西勝也裁判長)で上告棄却の判決を受け、死刑が確定している[116]。 2007年10月から胃癌の治療を受けていたが[110]完治せず延命治療を拒否し、2008年12月16日に東京拘置所内で多臓器不全のため獄死(69歳没・再審請求中)[109]。公判中の1989年1月に手記『監獄日記 東京拘置所の四季』(彩流社)を出版。以後、死刑確定後には『東京拘置所死刑囚物語 獄中20年と死刑囚の仲間たち』(2006年3月・彩流社)・『なぜ死刑なのですか 元警察官死刑囚の言い分』(2006年10月・柘植書房新社)を刊行したほか、死後にも『殺意の時 元警察官・死刑囚の告白』(2010年4月・彩流社)が刊行された[83]。 |
| 今市4人殺傷事件(藤波芳夫[117]) | 1993年10月4日[94][96] | 1981年3月29日[118] | 1931年(昭和6年)5月15日生まれ[83]。本籍地は埼玉県鴻巣市逆川一丁目75番地1[119]。 1981年3月29日16時10分ごろ[118]、栃木県今市市大室(現:日光市大室)で離婚した妻の実家に押し入り、親類の男女2人(家主の妻であった36歳女性、親類の56歳男性)を刺殺した[120]。動機は逆恨みから元妻の親類を皆殺しにしようとしたものである[118]。 強盗殺人など4つの罪に問われ、1982年2月19日に宇都宮地裁(竹田央裁判長)で死刑判決を言い渡された[118]。弁護人は覚醒剤の再燃現象がなければ事件は起きなかったと主張し、犯行時の藤波は心神耗弱状態だったと訴えたが、宇都宮地裁は藤波が事件当時の記憶を正常に保っており、逃走しやすいよう車の向きを変えたり、刺殺した被害者らの上にシートを被せたりなどしていたことから、心神耗弱との主張を退けた[118]。宇都宮地裁における死刑判決は1970年11月11日に宣告された烏山町(現:那須烏山市)の呉服屋一家3人殺し事件第一審判決以来、12年ぶりだった[118]。藤波は判決を不服として控訴したが、1987年11月11日に東京高裁(岡田満了裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[121]。 1993年9月9日に最高裁第一小法廷(味村治裁判長)で上告棄却判決を言い渡され[122][119]、判決訂正申立も同年10月1日付の決定で棄却され[123]、同月4日付で死刑が確定[94][96]。 死刑確定後に「事件当時は覚醒剤の影響下にあり、飲酒によりフラッシュバック状態になって事件を起こした」として、責任能力の問題を主張し、再審請求していた[124]。 2006年12月25日に東京拘置所で死刑執行(75歳没)[125][83]。この年齢は同日に処刑された秋山芳光(当時77歳)とともに[125]、それまで戦後最高齢とされていた古谷惣吉[126](71歳3か月)[127]を上回っている。 2008年10月11日に開催された「響かせあおう死刑廃止の声2008 死刑囚からあなたへ」では「死刑執行時は車椅子に乗った状態から刑務官に両脇を抱えられて刑場に立たされた」とする死刑執行の場面が再現されているほか[128]、『年報・死刑廃止2007』には遺書全文が掲載されている[129]。 |
| 半田保険金殺人事件 (H) | 1993年10月12日[94] | 1979年11月19日 - 1983年12月25日 | 1950年(昭和25年)11月3日生まれ[130][131][132]。旧姓T[83]。 経営していた板金塗装会社の経営不振から、1979年11月に知人の共犯Iと共謀して知り合いの織布工A(当時20歳)[133]に生命保険(2,000万円)を掛け[134]、衣浦港(愛知県知多郡武豊町)に突き落として殺害した[133]。さらに1983年1月にも雇っていた従業員B(同30歳)に生命保険(2,000万円)[134]を掛けた上で京都府相楽郡加茂町内にて交通事故を装って殺害したほか、同年12月には愛知県半田市内で金融業者C(当時39歳)を[133]借金逃れのために殺害した[134]。 1985年12月5日に名古屋地裁刑事第2部[135](鈴木雄八郎裁判長)で[83]共犯Iとともに死刑判決を受け[136]、1987年3月31日に名古屋高裁刑事第1部[137](山本卓裁判長)で控訴棄却判決を受けた[134]。共犯Iは控訴審判決後に上告せず、死刑が確定(参照)[136]。 自身も1993年9月21日に最高裁第三小法廷(園部逸夫裁判長)で上告棄却判決(5裁判官全員一致)を受け[138]、判決訂正申立も同年10月8日付の決定で棄却され[139]、同月12日付で死刑が確定[94]。同判決に当たり、裁判官・大野正男が「死刑制度は憲法違反とは断言できないが、合憲判断を下した1948年の大法廷判決以降、死刑が「残虐な刑罰」(日本国憲法36条違反)に当たると評価される余地は著しく増大した[注 9]。死刑廃止に向かいつつある国際的動向と、死刑制度の存続を支持する我が国民との意識とが大きな隔たりを持ち続けることは好ましくない。一定期間、死刑執行を法律で実験的に停止し、犯罪増加の有無との相関関係を調べるなどの立法的施策が考えられる」と補足意見を述べた[133]。 死刑確定後には1997年11月[140]・2000年5月下旬と[141]2度にわたり恩赦出願をしたが、2度とも名古屋拘置所から「恩赦不相応」の告知がなされた[140]。死刑が確定した1993年および死刑確定後の2000年には被害者Bの遺族(母親・兄ら)が「Hを許すことはできないが、生きてこそ償いだ。死刑執行は望まない」とする嘆願書を収監先・名古屋拘置所宛に提出し、後者は死刑囚Hの弁護人が2000年5月下旬に提出した恩赦願いに添えていた[141]。 Bの兄は2001年4月にも高村正彦法務大臣に対し死刑執行の中止などを訴えたが[142]、森山眞弓法務大臣の死刑執行命令により2001年12月27日に名古屋拘置所で死刑執行(51歳没)[143]。 |
| 北九州母娘殺傷事件 (M) | 1993年11月16日[94][91][74][144] | 1990年3月12日 | 1950年(昭和25年)3月18日生まれ[83]。無期懲役刑の受刑者が仮釈放中に再犯した事件[83]。 1993年10月27日に福岡地裁小倉支部(森田富人裁判長)で死刑判決を受け、弁護人が控訴したが、1993年11月16日に自ら控訴を取り下げたことで死刑が確定した[83]。その後公判再開を申し立てたが棄却され、2009年1月29日に福岡拘置所で死刑執行(58歳没)[83]。 本事件の死刑確定以降、被害者1人の殺人事件に対する死刑確定は1998年4月(熊本大学生誘拐殺人事件)までなかった[145]。 |
| 平取事件 (O)[146] | 1993年12月21日[94] | 1979年7月18日[147] | 1944年(昭和19年)1月19日生まれ[131]。 1979年7月18日夜、日高振興局管内沙流郡平取町振内の剥製業者男性(当時51歳)から貸してほしいと求められていた22口径自動ライフル銃を持って男性宅を訪れた[148]。Oは持参したライフル銃を担保に毛皮の取引代金127万円の支払いの猶予を求めたが[149]、断られた上[150]、支払いを激しく迫る男性にライフルを振り回されたため[148]、咄嗟に銃を奪い返し[149]、男性の頭を銃撃して殺害。さらに犯行を隠すため、男性の妻(当時37歳)、次男(同2歳)、長女(同22歳)の3人も相次いで射殺した[149][150]。 Oは被害者と取引上の借金があり、事件前に胆振管内大滝村で凶器の銃を試射したことがあったことから、事件から1年4か月後の1980年11月に逮捕された[149]。物的証拠が乏しかったこの事件の第一審では、32人の弁護団が結成され、「証拠不十分」などを理由に無罪を主張したが、初公判でOは起訴事実を認めた一方、法廷ではほとんど事件について語らなかった[146]。1984年3月23日、札幌地裁刑事第3部(安藤正博裁判長)はOの自白の信用性を認め、Oに死刑判決を言い渡した[148]。 控訴審以降は国選弁護人が事実関係を認め、無期懲役を求めたが[146]、1987年5月19日に札幌高裁第3部(水谷富茂人裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[151]。 上告審で弁護人は死刑制度の違憲性や、Oが深く反省していることなどを訴え、量刑を無期懲役に減軽するよう求めていたが[149]、1993年12月10日に最高裁第三小法廷(小野正男裁判長)で上告棄却判決を言い渡された[152][150]。同月21日付で死刑が確定[94]。 1999年11月8日に収監先の札幌拘置支所(札幌刑務所に隣接)[注 3]で入浴中、貸し出された剃刀で右頸部を切り、頸動脈切断のため失血死した(55歳没)[146]。法務省によれば当時、自殺した死刑囚は1936年以降で4人目だった[146]。主任弁護人の三津橋彬によれば、Oは反省と悔悟に苦しんでいたという[153]。 |
1994年
1994年(平成6年)に死刑判決が確定した死刑確定者は3人である[1][154]。
| 事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
|---|---|---|---|
| 勝田清孝事件(勝田清孝) | 1994年2月5日[155][156] | 1972年9月 - 1983年1月 | 1948年(昭和23年)8月29日生まれ[131][147]。事件の一部(1982年10月 - 1983年1月 / 警察官を襲撃して拳銃を強奪し、その拳銃で起こした連続強盗殺傷事件)は「警察庁広域重要指定113号事件」に指定された[157]。 強盗殺人罪など合計33の罪状・計27の犯罪事実で名古屋地方裁判所へ起訴されたが、併合罪(刑法第45条)の規定により[注 10]、「113号事件」を起こす以前に受けた有罪判決X[注 11]を境に「X判決前の強盗殺人7件ほか17罪」(前半事件)+「X判決後の殺人1件ほか『113号事件』16罪」と分離されて判決が言い渡された[159]。 1986年3月24日に名古屋地裁刑事第4部(橋本享典裁判長)で、前半事件・113号事件ともに死刑判決を受け[159]、名古屋高裁に控訴したが[160]、1988年2月19日に名古屋高裁(吉田誠吾裁判長)で控訴棄却判決を受けた[161]。 1994年1月17日に最高裁第一小法廷(小野幹雄裁判長)で上告棄却判決を受けたが[162]、同日に支援者である来栖宥子の実母(藤原姓)と養子縁組して「藤原清孝」に改名していた[156][163]。 1994年1月26日付で最高裁判決を不服として最高裁第一小法廷(小野幹雄裁判長)に判決を訂正するよう申し立てたが、1994年2月3日付で同小法廷から申立て棄却決定が出され、同決定書が1994年2月5日に勝田宛に届いたことで正式に死刑判決が確定した[156]。 2000年11月30日に名古屋拘置所で死刑執行(52歳没)[147]。 |
| 岐阜の一家3人殺し (M) | 1994年3月7日[155] | 1989年2月14日[147] | 1943年(昭和18年)7月26日生まれ[147]。岐阜県羽島郡笠松町出身、元パチンコ店従業員[164]。 1988年3月、勤め先の女性と親しくなったことが原因で前妻と離婚[165]。それ以来、復縁を強く望んでいたが、前妻の両親と妹が自身の女性関係などを理由に強く反対したことを逆恨みし、彼らの殺害を決意した[166]。1989年2月14日3時30分ごろ、岐阜県岐阜市椿洞の前妻の実家に刺身包丁を持って侵入し、前妻の父親A(当時67歳)と彼の妻B(当時57歳)、妹C(当時32歳)の3人を刺殺した[166][167]。 殺人と銃刀法違反の罪に問われ、1989年12月14日に岐阜地裁(橋本達彦裁判長)で死刑判決を言い渡された[166]。判決を不服として名古屋高裁に控訴し、控訴審でM本人は、Cは刺すつもりがなかったのに偶然刺してしまったという旨、AやBはは先に相手から攻撃してきたため、防御的な犯行であり、傷害致死罪であると主張し、被害者3人全員への殺意の存在を否定したが、1990年7月16日に名古屋高裁(吉田誠吾裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[165]。同判決を不服として上告したが、後に名古屋拘置所内でキリスト教の洗礼を受け、1994年3月7日付で自ら上告を取り下げたため[168]、同日付で死刑が確定[155]。上告取り下げ後、弁護人に対し「すべてを神にゆだねました」などと綴った手紙を送っていた[168]。また上告審の弁護人を務めていた浦部和子によれば、死刑確定から執行までは懺悔の日々を送り、死刑執行前に病死しないよう健康にも気を配っていたという[169]。 2000年11月30日に名古屋拘置所で死刑執行(57歳没)[170]。 |
| 北海道庁爆破事件(大森勝久) | 1994年9月6日[155][171] | 1976年3月2日[172] | 1947年(昭和22年)9月7日生まれ[147]。岐阜県多治見市出身[172]。2020年9月27日時点で[11]札幌刑務所札幌拘置支所[注 3]に収監中(現在78歳)[173]。 1976年3月2日9時2分ごろ、北海道札幌市中央区北3条西6丁目の北海道庁舎1階ロビー西側のエレベーター前でバッグの中に仕掛けられた時限装置付き消火器爆弾が爆発し、道庁職員2人が死亡、95人が重軽傷を負った[172]。事件後の12時40分ごろ、北海道新聞社へ「東アジア反日武装戦線」を名乗る男の声で電話があり、地下鉄大通駅コインロッカーからテープライターを使った犯行声明文が発見された[174]。大森は同年8月10日、岐阜県警からの情報提供を受けて内偵捜査を行っていた北海道警により、木炭や硫黄などを投棄して本州へ向かおうとしたところ、苫小牧フェリーターミナルで逮捕された[172]。また道警爆破事件(1975年7月19日)でも逮捕されたが、処分保留となっている[172]。 爆発物取締罰則違反、死亡した2人への殺人罪、負傷者95人のうち殺意がおよんだとされる81人に対する殺人未遂罪で起訴された[172]。刑事裁判で大森は一貫して無実を主張したが[172]、初公判(1977年2月)から6年1か月後となる1983年3月29日に開かれた判決公判(第128回公判)で、札幌地裁刑事第5部(生島三則裁判長)は大森の犯行を全面的に認定し、死刑判決を言い渡した[174]。大森は控訴したが、1988年1月21日に札幌高裁第3部(水谷富茂人裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[175]。 大森は上告したが、1994年7月15日に最高裁第二小法廷(大西勝也裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された[172][176]。大森は同判決に対し「本件は冤罪」と不服を訴え[177]、主文を「原判決を破棄し、被告人を無罪とする」へ訂正するよう求めたが[178]、同申立は同年9月5日付で棄却されたため[179]、同月6日付で死刑が確定[155][171]。新左翼過激派の闘争事件に関する死刑確定は、1987年に死刑が確定した「連続企業爆破事件」の死刑確定者2人(大道寺将司・益永利明)や1993年に死刑が確定した「連合赤軍事件」の死刑確定者2人(永田洋子・坂口弘)に次いで3件目[172]。 1985年、支援者と獄中結婚。獄中で極左から保守主義に転向し、外部協力者によって論文を雑誌に掲載しているほか、政治評論のホームページを運用している。また2025年までに4回の再審請求をしている[180]。 |