徳源院 (米原市)
From Wikipedia, the free encyclopedia
| 徳源院 | |
|---|---|
|
本堂 | |
| 所在地 | 滋賀県米原市清滝288 |
| 位置 | 北緯35度20分43秒 東経136度23分17秒 / 北緯35.34528度 東経136.38806度座標: 北緯35度20分43秒 東経136度23分17秒 / 北緯35.34528度 東経136.38806度 |
| 山号 | 霊通山 |
| 宗派 | 天台宗 |
| 本尊 | 聖観世音菩薩(市指定有形文化財、秘仏) |
| 創建年 | 弘安9年(1286年) |
| 開基 | 京極氏信 |
| 正式名 | 霊通山清瀧寺徳源院 |
| 別称 | 清瀧寺 |
| 札所等 | びわ湖百八霊場第49番 |
| 文化財 |
京極家墓所(国指定史跡) 三重塔(県指定有形文化財) 庭園(県指定名勝) 木造聖観世音菩薩立像、木造如意輪観世音菩薩坐像、大般若経600帖(市指定有形文化財) 道誉桜(市指定天然記念物) |
| 公式サイト | 徳源院 |
| 法人番号 | 3160005003995 |
徳源院(とくげんいん)は、滋賀県米原市清滝にある天台宗の寺院。山号は霊通山。本尊は聖観世音菩薩。寺号で清瀧寺(せいりゅうじ)とも呼ばれる[1]。京極氏の菩提寺であり、境内にある京極家墓所は国の史跡に指定されている[2]。
当院は、弘安6年(1283年)に近江守に任ぜられた京極氏の初代当主・京極氏信によって、弘安9年(1286年)に柏原城[3]の跡地に創建された。寺名は氏信の法号の清瀧寺殿からとられ清瀧寺とされ[4]、氏信の死後にはその菩提寺とされた[5]。
戦国時代となり京極氏が没落すると当院も傾廃した[6]。とは言え、京極高次が大津城主になると同寺の再興に努めており、慶長4年(1599年)11月に石田正継[注釈 1]から高次に充てられた書状でも清瀧寺と勝楽寺(京極高氏の菩提寺)に対する京極氏の特権を承知していると述べられている[7]。その後、京極氏が若狭国小浜藩、出雲国松江藩に転封されたことで現地にも菩提寺が造営されることになり、高次の妻常高院(初)の墓所・菩提寺である小浜の常高寺は甥である徳川家光の庇護もあり、現在も小浜で存続している[8]。
ところが、京極高和の末期養子が認められずに高次以来の功績をもって改易は免れて播磨国龍野藩、次いで讃岐国丸亀藩に移されるが、石高は4分の1に減らされてしまう。そのため、高和と重臣佐々光長は龍野には養父(血縁上は伯父)京極忠高の菩提寺(後の玄要寺)のみを建て(その後丸亀に移転)、墓所は清瀧寺に集約する方針を打ち立てる。高和の後を継いだ京極高豊は寛文12年(1672年)に江戸幕府に請願して播磨国にある丸亀藩の所領2村と近江国の当地2村(清瀧村・大野木村)を交換し[9]、当地に残されていた京極氏信の菩提寺である当院を再興させて三重塔(滋賀県指定有形文化財)を寄進し、当院の院号を父・京極高和の法名に基づき徳源院と改めた[4]。また、付近に散在していた中世京極氏歴代の18基の宝篋印塔を新しく整備した京極家墓所(国指定史跡)の上段に集め、下段には家を中興した京極高次の石製霊屋を中心に歴代丸亀藩主と多度津藩主の墓所とした[5][10]。集約化の背景として財政的な問題に加えて、徳源院(清瀧寺)は中山道に近く参勤交代の際に立ち寄りやすいこと、末期養子が認められず減転封となった京極氏にとって同氏が鎌倉時代から続く家であることを再認識させる施設が必要だと考えられたことが背景にあったとみられる[11]。
京極氏嫡流(後の丸亀藩主家)について言えば、京極勝秀[注釈 2]・京極政経[注釈 3]・京極高朗[注釈 4]・京極朗徹[注釈 5]以外の墓所は全てここにあるとされている。
1976年(昭和51年)から1977年(昭和52年)にかけて三重塔の修理が行われると、瓦葺から創建当初の杮葺に戻されている[6]。
当院の北には清滝神社がある。
境内
文化財
前後の札所
- びわ湖百八霊場
- 48 悉地院 - 49 徳源院 - 50 松尾寺
所在地
- 滋賀県米原市清滝288