佐々木貞宗 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 鎌倉時代中期 - 後期生誕 弘安10年(1287年)[1]死没 嘉元3年5月8日(1305年5月31日)[2][3][4]別名 京極貞宗、通称:三郎左衛門尉[3][4]、備前掃部助[5] 凡例佐々木貞宗時代 鎌倉時代中期 - 後期生誕 弘安10年(1287年)[1]死没 嘉元3年5月8日(1305年5月31日)[2][3][4]別名 京極貞宗、通称:三郎左衛門尉[3][4]、備前掃部助[5]戒名 春窓道夢[2]墓所 滋賀県米原市の徳源院幕府 鎌倉幕府主君 久明親王氏族 近江源氏佐々木氏(京極氏)父母 父:佐々木宗綱、母:佐伯頼綱娘[2]兄弟 祐信、時綱、貞宗、佐々木宗氏室妻 高島行綱娘[2][3]子 女子[4][3]テンプレートを表示 佐々木 貞宗(ささき さだむね)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将・御家人。佐々木氏支流京極氏3代当主。京極貞宗とも。 弘安10年(1287年)、佐々木宗綱の四男として誕生。母は佐伯左衛門尉頼綱の娘で、祐信・時綱の同母弟[2]。北条氏得宗家当主(鎌倉幕府第9代執権)の北条貞時より偏諱を受けて[6]貞宗と名乗る。 永仁5年(1297年)9月20日に父が死去[2][3][4]、長兄・祐信は父の意に叶わなかったとされ[2][3][4]、次兄・時綱は父に先だって17歳で早世していた[2][3][4]ため、家督を継ぐ[2]。その後、嘉元3年(1305年)5月8日、死去。享年19[2]。 死因は同年に起きた嘉元の乱で北条宗方の討手として参戦した際の戦死とされている[注釈 1]。 同族の高島行綱(高島氏)の娘を室としていて[2][3]一人の女子があったとされる[4][3]が、跡を継ぐ男子が無かった[8]ため、従兄で姉妹の夫でもある宗氏を経て[2]、宗氏と姉妹との間に生まれ、貞宗の養子となっていた甥の高氏が最終的に家督を継承した。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 『鎌倉年代記裏書』および『武家年代記裏書』の嘉元3年条に戦死者の一人として挙げられている[5]。尚、細川は系図類の(五月)「八」日は「四」日の誤記と推測している(同前)。また、この戦いでは同族の佐々木時清(貞宗の姉妹の夫である佐々木宗清の父)も戦死している[7]。 出典 ↑ 『寛政重修諸家譜』には「弘安十年生る」と明記されており、享年を基に没年から算出してもこれに一致する。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 『寛政重修諸家譜』 1 2 3 4 5 6 7 8 9 『尊卑分脈』 1 2 3 4 5 6 7 『系図纂要』 1 2 細川 2000, p.302 脚注(8). ↑ 紺戸 1979, p. 21。紺戸によれば、当初嫡子であったと考えられる兄・時綱も得宗家(時宗または貞時)から「時」の字を受けたようである。 ↑ 安田 1990, p. 242, 勝山清次「佐々木時清」. ↑ 『尊卑分脈』の付記に「雖為嗣嫡依無男子不継之」とある。 参考文献 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』吉川弘文館、2000年。 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について : 鎌倉幕府御家人の場合」『中央史学』第2巻、中央大学、1979年3月、10-26頁、CRID 1570009752940858752、ISSN 03889440。 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年。 『西讃府史』 『寛政重修諸家譜』(四百十九) 表話編歴京極氏第3代当主(1297年 - 1304年)宗家 中世 氏信 宗綱 貞宗 宗氏 高氏 高秀 高詮 高光 持高 高数 持清 孫童子丸 政経 高清 高延 高吉 近世以降(丸亀京極家) 高次 忠高 高和 高豊 高或 高矩 高中 高朗 朗徹 高徳 高修 高晴 分家・支流 高次流分家 多度津京極家 高通 高慶 高文 高賢 高琢 高典 寿吉 高典(再襲) 高備 高量 高知流 宮津/高家京極家 高知 高広 高国 高規 高甫 高本 高厚 高以 高正 高福 豊岡京極家 高三 高直 高盛 高住 高栄 高寛 高永 高品 高有 高行 高厚 高義 高光 高忠 高晴 峰山京極家 高通 高供 高明 高之 高長 高久 高備 高倍 高鎮 高景 高富 高陳 高富(再襲) 高致 高頼 高鋭 高幸 Related Articles