志摩篤
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熊本県熊本市に5人兄弟の末っ子として生まれる[2]。 小学校1年の時に父の転勤により、福岡に移り、戦後は長崎県大村市で高校卒業まで過ごす[3]。防衛大学校(当時は保安大学校)入校の動機は兄が保安隊に入隊しており、以前から入隊を勧められていたことと、当時新聞に掲載された保安大学校の制服を見て格好いいと思い志願した[3]。防大では剣道部に所属する。1957年(昭和32年)に防大を卒業し、幹部候補生として訓練を受けたのち、1958年(昭和33年)に初任地である第1普通科連隊(練馬)に小隊長として配属された[4]。その後、小隊長から連隊の指揮訓練幹部となり、第一次安保闘争を迎える[4]。治安出動の準備命令に際し、志摩が連隊本部から師団司令部に命令受領に行き、「命令の文言は思い出せないが、ただ1つはっきりと覚えていることは、師団幹部が読み上げる命令を聞いているだけで足が震えた」と後に語っている[5]。 中隊長は第2普通科連隊(高田)で上番[3]。第二次安保闘争では陸上幕僚監部第3部防衛班で勤務しており、その時は防衛庁正門に学生が雪崩れ込んできたという。また、1976年(昭和51年)9月に発生したミグ25事件(ベレンコ中尉亡命事件)では陸幕第2部情報第2班で事態の対応にあたった[3]。1977年(昭和52年)1月に1等陸佐に昇任、陸幕第2部情報1班長、調査2課2班長、第1普通科連隊長、陸幕運用課長を歴任し、陸将補に昇任後は東北方面幕僚副長、陸幕教育訓練部長を務めた。志摩の教育訓練部長在任中に日米共同訓練が始まった[3]。1986年(昭和61年)6月に陸将に昇任、第9師団長、防衛大学校幹事、北部方面総監の要職をこなして、1990年(平成2年)3月16日に陸上幕僚長に就任し、2年間務めたのち1992年(平成4年)3月16日に退官した。防大1期生として昭和32年3月に任官していらい、防大出身幹部自衛官の"手本"となることを求められた35年間であり、防大の槇智雄初代校長の「民主主義を理解し、科学的思考を持つ人間たれ」の教えを体現、淡々と職責を果たしてきた[6]。退官前の最後の定例記者会見では「幹部自衛官は今まで以上に、こうあるべきだというものを示さなくてはならなくなると述べ、最後に「やり残したことは一つもありません」と、自衛隊生活40年をふり返り、しめくくった[6]。
年譜
- 1953年(昭和28年)3月:長崎県立大村高等学校卒業
- 1957年(昭和32年)3月:防衛大学校卒業(第1期)、陸上自衛隊入隊
- 1970年(昭和45年)3月16日:第2普通科連隊中隊長
- 1972年(昭和47年)7月1日:2等陸佐昇任
- 1977年(昭和52年)
- 1978年(昭和53年)
- 1月30日:陸上幕僚監部調査部調査第2課調査第2班長
- 8月1日:第1普通科連隊長
- 1981年(昭和56年)1月10日:陸上幕僚監部防衛部運用課長
- 1982年(昭和57年)7月1日:陸将補昇任
- 1983年(昭和58年)3月16日:東北方面総監部幕僚副長
- 1984年(昭和59年)7月1日:陸上幕僚監部教育訓練部長
- 1986年(昭和61年)6月17日:陸将昇任、第9師団長
- 1987年(昭和62年)7月7日:防衛大学校幹事
- 1988年(昭和63年)7月7日:第19代 北部方面総監
- 1990年(平成2年)3月16日:第22代 陸上幕僚長
- 1992年(平成4年)3月16日:退官
- 2006年(平成18年)11月3日:瑞宝重光章受章[7]。日本会議代表委員を務める[8]。
著書
- 『イギリス国防体制と軍隊』教育社、1979年 防衛官僚だった池田久克との共著