西元徹也
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鹿児島県垂水市出身[3]。父親の仕事の関係で小中学校の時に二度ほど横浜に住んだが、中学一年の時に垂水市にもどる。県立垂水高校卒業後、防衛大学校に入校するが[3]、高校の野球の試合の時に鹿児島の桟橋で防大生に出会ったことがきっかけであった[3]。防大卒業後の1959年(昭和34年)に陸上自衛隊に入隊[4][5]。幹部候補生学校卒業後は機甲科に進み[3]、初任地は北恵庭の第101戦車大隊。ここでの勤務がその後の部隊勤務の基礎ができたと語っている[3]。その後、富士学校勤務を経て、第101戦車大隊に中隊長として戻る。幹部学校CGS課程を卒業後、第104戦車大隊中隊長を経て幹部学校教官となり、その間に米国に留学し、米国陸軍機甲学校と第2機甲師団の隊付を経験する[3]。1976年(昭和51年)8月に第4戦車大隊長兼玖珠駐屯地司令、1978年(昭和53年)3月から2度目の米国留学をする。その後は陸幕運用課長、防衛部長等を務め、1988年(昭和63年)7月に陸将に昇任し、第7師団長、陸上幕僚副長、中部方面総監を歴任、1992年(平成4年)3月に第23代陸上幕僚長に就任した。1993年(平成5年)7月から第20代統合幕僚会議議長に就任し、1995年(平成7年)1月に発生した阪神大震災への災害派遣などを指揮した[5][6]。1996年(平成8年)3月に退官した。陸幕長在任中の1992年に日本が初めて参加した国連平和維持活動(PKO)において、内戦後のカンボジアの復興を支援するため、自衛隊初のPKO部隊を同国に派遣するなどの対応にあたった[4][5]。退官後は日本地雷処理を支援する会会長、防衛大臣補佐官[5]、隊友会会長などを務めた。
年譜
- 1959年(昭和34年)3月:防衛大学校応用化学科 卒業(第3期)
- 1960年(昭和35年)7月:第101戦車大隊
- 1962年(昭和37年)8月:陸上自衛隊富士学校勤務
- 1967年(昭和42年)
- 3月:第101戦車大隊中隊長
- 7月:陸上自衛隊幹部学校入校(第13期指揮幕僚課程)
- 1969年(昭和44年)3月:第104戦車大隊中隊長
- 1970年(昭和45年)7月:3等陸佐、幹部学校勤務
- 1972年(昭和47年)3月:米国留学(米国陸軍機甲学校等、7月まで)
- 1973年(昭和48年)3月:陸上幕僚監部第1部勤務
- 1974年(昭和49年)7月:2等陸佐
- 1976年(昭和51年)8月2日:第4戦車大隊長兼玖珠駐屯地司令
- 1978年(昭和53年)7月1日:1等陸佐
- 1979年(昭和54年)
- 7月20日:陸上幕僚監部防衛部付
- 8月1日:陸上幕僚監部防衛部運用課運用第1班長
- 1982年(昭和57年)3月16日:防衛研修所所員
- 1983年(昭和58年)3月16日:陸上幕僚監部防衛部運用課長
- 1984年(昭和59年)7月1日:陸将補に昇任
- 1985年(昭和60年)3月16日:中部方面総監部幕僚副長
- 1986年(昭和61年)3月17日:陸上幕僚監部防衛部長
- 1988年(昭和63年)7月7日:陸将に昇任、第7師団長
- 1989年(平成元年)6月30日:陸上幕僚副長
- 1991年(平成3年)3月16日:中部方面総監
- 1992年(平成4年)3月16日:第23代 陸上幕僚長
- 1993年(平成5年)7月1日:第20代 統合幕僚会議議長
- 1996年(平成8年)3月24日:退官
- 1998年(平成10年)8月:防衛庁顧問
- 2002年(平成14年)3月:防衛庁顧問 辞任
- 2007年(平成19年)11月3日:平成19年秋の叙勲において瑞宝重光章を受ける
- 2010年(平成22年)1月8日:防衛大臣補佐官(現:防衛大臣政策参与)
- 2011年(平成23年)9月27日:防衛大臣補佐官(現:防衛大臣政策参与) 退官
- 2012年(平成24年)6月:公益社団法人隊友会会長
- 2024年(令和6年)4月3日、東京都の自宅で死去[7]。