Wikiwand AI

賀陽宮恒憲王

日本の明治時代後期~昭和時代後期の皇族(後に皇籍離脱し、旧皇族)・陸軍軍人。賀陽宮邦憲王の長男。陸軍大学校長、功三級。賀陽宮2代 From Wikipedia, the free encyclopedia

賀陽宮恒憲王(かやのみや つねのりおう、1900年〈明治33年〉1月27日 - 1978年〈昭和53年〉1月3日)、のちに賀陽 恒憲(かや つねのり)は、日本の旧皇族、陸軍軍人。神宮祭主賀陽宮邦憲王の第1王子。賀陽宮第2代当主。官位は陸軍大学校長陸軍中将大勲位功三級に昇る。妃は九条道実公爵の五女敏子。戦後皇籍離脱した。香淳皇后(昭和天皇后)の従兄にあたる。

続柄
全名 恒憲(つねのり)
身位 王 →(皇籍離脱)
敬称 殿下 →(皇籍離脱)
概要 賀陽 恒憲 (賀陽宮恒憲王), 続柄 ...
賀陽 恒憲
(賀陽宮恒憲王)
賀陽宮
続柄

全名 恒憲(つねのり)
身位 王 →(皇籍離脱)
敬称 殿下 →(皇籍離脱)
出生 1900年(明治33年)1月27日
大日本帝国の旗 日本・京都府京都市上京区御苑下立売御門内賀陽宮邸
死去 (1978-01-03) 1978年1月3日(77歳没)
日本の旗 日本・千葉県柏市光ケ丘
埋葬 1978年1月9日
豊島岡墓地
配偶者 九条敏子(九条道実5女)
子女 邦寿王
美智子女王
治憲王
章憲王
文憲王
宗憲王
健憲王
父親 賀陽宮邦憲王
母親 邦憲王妃好子(後陽成天皇8世孫)
栄典 大勲位菊花大綬章
勲一等旭日桐花大綬章
役職 掌典長
御歌所長
日清生命社友会会長
軍歴
階級 陸軍中将
テンプレートを表示
閉じる
士官候補生時代の恒憲王
概要 称号:王 ...
称号:王
閉じる

概要

1943年(昭和18年)3月1日、陸軍中将に任命[1]。王は軍人として東京・名古屋の各部隊の師団長や、陸軍大学校長などを歴任し早くから大戦終結の聖断を昭和天皇に求めた。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲では、賀陽宮邸が全焼。一家で宮城に避難し、表拝謁ノ間に仮宿する。天皇・皇后から罹災の御見舞金として1万円を賜る[2]。翌3月11日、昭和天皇に宮邸全焼に伴う御見舞への御礼を行うとともに、対話の通じて無条件降伏と戦争責任者の処罰以外は戦争終結の条件として考えられ得ると述べている[3]。

終戦が決まると皇族の臣籍降下を主張した。1947年(昭和22年)10月14日臣籍降下し、その3日後には区役所にて住民手続きし賀陽 恒憲(かや つねのり)となる。臣籍降下直後に公職追放となる[4](1952年(昭和27年)解除[5])。「平民的な宮様」として国民に慕われ、生活ぶりは質素であった。他方「野球の宮様」とも称され、1934年(昭和9年)にはアメリカ・ニューヨーク、ヤンキー・スタジアムで試合を観戦した。終戦後、御歌所長を務めた後、日清生命社友会会長などの公職を歴任した。 王の邸宅はかつて閑院宮載仁親王や久邇宮邦彦王が居住していたが、後に千鳥ヶ淵戦没者墓苑となった。

人物

乗馬が好きで、大正時代にできた日本初の乗馬クラブである神戸乗馬倶楽部主催の「全国乗馬大会」の第2回から4回までの総裁を務めた[6]。

略年表

栄典

勲章等
さらに見る 受章年, 略綬 ...
閉じる

血縁

第3王子章憲王の子である賀陽正憲は第126代天皇徳仁の学友であり、民間企業勤務の後国家公務員となった。7人の子供は上皇明仁のはとこ。(恒憲王妃敏子の父九条道実と昭和天皇の母貞明皇后が兄妹)、(恒憲王の父邦憲王と香淳皇后の父邦彦王が兄弟)

脚注

外部リンク

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks